ボクな君

著 南修一






「ボクたちの未来を祝って、乾杯〜」
「かんぱーい」
 生ビールで一杯のジョッキ同士がかち合った鈍い音は、居酒屋の喧騒にすぐかき消された。
 駅前のチェーン店は外がもうすっかり暗くなっているからか、サラリーマンをはじめとした多種多様な職種の人々でごった返している。ちらほらと見たことある知り合いのいる集団が座敷などにいるのも見えた。
「ビール、美味しいねー。嫌なときはやっぱりお酒でぱーっと忘れないと」
 冷たいコーヒー以来なにも飲まなかったせいか、喉がからからだ。躊躇することなくジョッキを口に運びながら、ぼくはうなずく。強いことは強いけれど、別段酒は好きじゃないぼくでも、この瞬間だけは病み付きになってしまいそうな魔力をビールは持っている。
 お互いににししと不気味に笑いながら、つまみを潤った口へと放り込む。
 体の力を抜いた彼女はへなっとしなっていた。テーブルに両肘をついて猫背で、こちらを上目遣いでうかがっている。ぼくは元々論外だが、彼女はあの凛々しさがどこに行ってしまったのかと問いたくなるようなくだけ具合だ。その様子は、どこか日向に寝転ぶ猫を思わせた。
 彼女――高梨涼香(たかなしすずか)さんは、やはり同じ大学の学生だった。ただぼくの感というか記憶力はそこで停止していたのか、あの推理は丸外れで、他の学部どころか同じ学部――しかも同級生ということだった。見たことがあったような気がするのも当然で、彼女とは何回も同じ講義を取っているらしい。
 なのに、あの推理だ。ぼくの脳みそは間違いなく腐っている。今年二十歳になったばかりだというのに、腐敗し始めている自分の脳にちょっと恐怖する。
「お酒が美味しいのは結構だけど、なんでぼくと飲んでるのさ?」
 それは一番の謎だった。こうやって向かい合って座っている今でもなにかの間違いのような気がする。もしかしたら、あいつのドッキリかもしれない。絶望しているぼくを更に地獄へ突き落とそうと……まあ、ないだろうけど。
 戯言は放っておいたとしても、実際――何度も講義が一緒なのに彼女の名前も知らなかったぼくをお酒に誘っても、おそらくというか絶対プラスには働かないだろう。振られたことからもわかるように、ぼくがつまらない男だということは太鼓判を押してもいい。
「相馬くんは嫌?」
「ぜ、全然嫌じゃないよ。でも、知り合いでもないぼくと一緒に飲んだって楽しくないでしょ」
 控えめに言ったとしても、相手は美少女だ。嫌なわけがない。音がしそうなくらい、強く首を振った。今更、気が変わられても正直落ち込む。
「ううん、ボクだって楽しいよ。だって、嫌だったら誘わないよ。それに同じファミレスでで同時に、しかも隣の席で別れ話をしてたなんて珍しいじゃない」
 異性を楽しませるような能力がないのは百も承知なので、どこで買い被られたのか。ひょっとしたら、ぼくは講義中に奇天烈な行動でもして、変なやつだとでも思われてるのだろうか。そんなぼくの動揺を見透かしたのか、彼女はアルコールでほのかに火照り始めた頬で笑う。その微笑に逆ベクトルの動揺が生まれて来る。やばい、かなり可愛い。
 好きというわけじゃないけど、恋愛感情なんてなくたって男なんてすぐさかっちゃうわけで、たまたま目に付いたから誘われたということを改めて肝に銘じなければ。目がちょっと潤んでるのも、彼女がほろ酔いなだけだ。勘違いしたらアホだ。アホだぞ、ぼく。
「失恋したもの同士、相手への愚痴で盛り上がっちゃおう!」
「お、おお〜」
 少々テンションが高すぎる彼女においていかれないように声を上げる。
 手を突き上げて笑っているはずなのに、高梨さんの目は少し潤んでいるように見えて、もしかして無理をしてるのかもしれないとちょっとだけ思った。そう感じたのは、ぼくも一緒だったからかもしれない。
「じゃあ、ぼくから話そうかな。面白くもなんともないけど、まあ我慢して。ただ振られただけだし。やっぱり本打ちはあとに取っとかないと」
 合コンで酔った友人たちにモノマネを強要されたときみたいにちょっと照れながら、ぼくは彼女との別れを語り始めた。
 出会いから別れへと少しずつ語ることで追体験したぼくと吉沢の物語は、改めて考えるまでもなく極々平凡なものだった。それはそこかしこへ捨てられたように落ちていて、小説になったとしてもきっと誰も振り返ることのないちっぽけなものだったろう。
 それでも、その物語しか知らないぼくにとってはこれ以上ない大恋愛だった。蚤の心臓のぼくは彼女に告白する前、緊張しすぎて死ぬかと思ったし、吉沢と過ごす日々は刺激的でありながら安心できて、恋人として過ごした多くのイベントはかけがえのない思い出だ。将来、生まれた子供たちに語るには少々恥ずかしくても、それはふたりにとって忘れられない出来事になると思っていた。
 でも、それはもうありえない未来。語ることで見る夢は、訪れることのない幻で、ただのみっともない未練に違いない。
 そんなことは認めたくないっ!
 絶対認めたくない……認めたくないけど、問題はぼくが認める認めないの段階はとっくに過ぎ去っていて、多分、ただ受け入れるしかない。そんな否応もない現実が忍び寄ってきて、酒の酔いは冷めてしまった。飲んでも酔えないのはこういうときに辛い。それは宴会の後片付けを素面でさせられるのによく似ている。吉沢はもう新しい恋へと走り出していて、ぼくだけがその後片付けに追われている。堪えきれず胸一杯になった思いが溢れてきて、ぼくは音を立てて鼻をすすった。
「……高梨さん、ごめん。迷惑かもしれないけど、ちょっとだけ泣いていいかな?」
「相馬くんが謝ることなんてないよ。遠慮しないで、聞かなかったことにするから。お先にどうぞ」
「ありがと……」
 柔らかく微笑む彼女にお辞儀して、ぼくは俯いたまま涙をこぼした。大声を上げて泣けるほど子供じゃなくて、けれど黙って見過ごせるほど大人でもなくて、中途半端なままぼくは泣いた。
 泣いて、身を切り刻まれるくらいの辛さにさらされながら、ぼくはようやく言葉にできないなにかを少しだけ、ほんの少しだけ受け入れることができたような気がした。
 そんな思いと共に、この悲しみもいつかなかったことになってしまうのだろうなんてことも思う。悲しみの本当に深いところまで浸かって、その苦しさに耐え切れないと足掻きながらも、なんとか順応してしまうのが人間なんだろう。
 だから、多分――ぼくも人間なんだ。泣き終わる頃、そんなことを思った。

 ぼくが泣いていたのは、時間にすると五分もなかったのかもしれない。しかし、時間の長短なんて関係がなくて、胸を苛んでいた激情が去ってしまうと、途端にぼくはとてつもなく気恥ずかしくなって穴があったら入って蓋まで閉めてしまいたいような気持ちになっていた。
「あ、ああの、ごめんね。いきなり泣いちゃったりして、恥ずかしい奴だよね。大の大人なのに」
「相馬く――」
「い、いや、なにも言わないでいいんだ。本当に悪かったよ」
 高梨さんが喋り始めるのを制止してまで、ぼくは更に喋り続けた。彼女に主導権を渡してしまえば、恥ずかしさに潰されてしまいそうで、どちらかというと口下手なぼくには珍しく次々と言葉が出てきた。だからといって、口が達者になったわけではないので、出てくるのは情けない繰言ばかりだ。
「は、恥ずかしいことだってのは――」
 顔を真っ赤にしながら喋っていたぼくは、高梨さんから睨まれていることに気づいて、声が出なくなりパクパクさせた。
 ぜ、絶対、怒ってるよ〜。どうしよう、なんかめちゃくちゃ恐い。び、貧乏ゆすりが――
「相馬くん、ちょっと聞いてよね!」
「は、はひ!?」
 中ジョッキの半分くらいまでは入っていたビールを一気に飲み干す彼女を呆然と見つめながら、ぼくは安っぽいソファチェアーに正座したくなった。貧乏ゆすりはさらに激しくなっていく。
 一気飲みした高梨さんの目は――見事に据わっていた。
「いい!!」
「な、なんでしょう……」
「ひとりで勘違いしないで。ボクは相馬くんが泣いちゃったのをみっともないなんて思ってないんだからね。きみだって好きで泣いたんじゃないでしょ。彼女さんが好きで好きで仕方なくて、それでも諦めなくちゃならないから泣いたんでしょ!?」
「う、うん」
 ぼくに向かって怒鳴る高梨さんに気おされながらも、しっかりうなずく。馬鹿正直が功を奏したのか、彼女は少しだけ目尻を和らげた。
「なら、恥ずかしくもなんともないじゃない。そうでしょ?」
「そ、そうかなあ。ぼくは自分自身情けない奴だと思うけど……」
「まあ、ボクも情けないところまでは否定しないよ」
「そ、そんなぁひどい」
 にこりと微笑んで肯定する高梨さんに、力なく肩を落とす。
「じゃあ、そんな情けない相馬くんにひとつ質問」
「なにさ?」
「そんなに好きなら、どうして別れた彼女を追いかけなかったの? 別れ話に納得してるようには見えないけど」
 直球の質問。言葉が胸に刺さった。
「納得はしてないさ。でも、ぼくは吉沢が好きだからさ、あいつのことは――なんでもなんてまでは言えないけど――それなりに知ってる。だから、ぼくがそんな行動を取ったなら、彼女を傷つけて困らせるだけなのはよくわかるんだ。吉沢は頑固で融通が利かないから、絶対に縒りなんて戻せない。それでも……傷つきやすい奴なんだ。好きな女の子を傷つけるくらいなら諦めるさ、認めたくないけど、受け入れなくちゃいけないんだ」
 それは情けない、ただの逃げなのかもしれない。吉沢へ詰め寄ることが本当の愛かもしれない。でも、それはぼくにできそうもないことだった。彼女ではなくなったかもしれない。それでも大事な人だ。むやみやたら傷つけていいわけではないのだ。そんな考え方は絶対ではないかもしれない。でも、それはぼくにとって必然だ。情けないと笑わば笑え。
「ふーん、そういうもんなのかな。ボクはきみの彼女じゃないからよくわからないけど。だったら、ちゃんと男の子してるじゃん、相馬くんも。ボクはそう思うな」
「そ、そうかなあ。逃げてるだけのような気もするけど」
「ほらぁ、そうやって自分で落ち込まないの! あ〜〜ん、口開けて」
「へ? え?」
 また怒られてドギマギしていたぼくの口元に、高梨さんが持っている箸が近づいてきた。箸の先には冷や奴が抓まれている。唇と正面衝突をしても困るので、ぼくは馬鹿みたいに口を開けた。
「どう? 美味しい?」
 美味しいと訊かれても、なんの変哲もない冷や奴なんだけど、なにか仕掛けでもあるんだろうか。もしかして、高梨さんは、ぼくに料理番組みたいな高尚な批評でも期待してるのかもしれない。
 ……む、無理だ。そんなの。目隠しされたら、メロンとキュウリに蜂蜜の違いもわからないぼくには不可能に決まってる。そ、それになんだか笑ってるのに目が恐い気がする。こ、こんなときはとりあえず――
「お、美味しいよ! とっても美味しいね。こんなに美味しいの食べたことないよ」
 美味いといっとけば間違いはないだろう。これが特別な冷や奴だとしても、褒めておけば怒られることもないはずだ。多分……
「へえー、そんなに美味しかった? ボクとの間接キス」
「絶品だった。最高の味だったよ。……って、間接きす? どいうこと?」
 今は冷や奴の話じゃないの? いつ、話題がそんな異次元に!? もしかして、宇宙人によるアブダクションがこの短時間の間に。本当にいたのかあいつらは!?
「変態」
 高梨さんは満面の笑顔ながら顔を真っ赤にしてそう言った。
 ――変態。
 その言葉を相馬脳みそライブラリーで調べてみると、ピーっていう高音やあれな言葉で満たされていた。更に冷静に調べてみる。そう呼ばれた場合にはどうすればよいのだろう。

 ――――――死あるのみ

 そうかあ、死ねばいいのか…………って、ええぇぇぇ!?
「か、間接キスってどういうこと!? と、とりあえず、謝ります。ごめんなさい!」
 冷静に考えてみた結果が死刑であって、まず謝ろうと立とうとしたのだけれど、そこはよくあるボックス席なわけで立つようなスペースはなく、力一杯強固なボルトで床に備え付けられたテーブルへとしたたかに膝を打ち付けた。
「そ、相馬くん大丈夫!?」
 高梨さんの心配する声をどこか遠くで聞きながら、ぼくはあまりの痛さに声にならない叫びを上げ、机へと突っ伏した。
「あ、おつまみが……」
 彼女の声がまた遠くで聞こえる。痛みに錯乱してしまえば、目は見えてないのも同様で、そこに焼き鳥盛り合わせが見えているにもかかわらず、ぼくは思い切り皿へ顔を突っ込んだ。
「ああ!? う、動いちゃダメだってば! も、悶えたら焼き鳥のどろっとした濃厚なタレが顔全体に。お、おしぼりじゃ追いつかないよー! だ、誰か! 相馬くんを洗面所に〜!」
 『白本屋』駅前店17番テーブルはちょっとした修羅場になりかけていた。

「だ、大丈夫なのかなあ。ちょっとした騒ぎになっていたけど」
 焼き鳥のタレでべたついていた顔を冷たい水で洗うことができて、ぼくはようやく一息ついた。それでもまだ付いているような気がして、頬に手をやってしまう。
 あのあと、ぼくらのテーブルはえらいことになった。ぼくが痛みに悶えたせいか、焼き鳥は肉だけでなくタレまであたりに飛び散って、惨々たるものだった。高梨さんが慌てているのも、周りの注目を集めているのも知っていたけれど、ぼくは痛みがまだ残っているのと間接キスによる精神的ショックのせいで、店員さんが新しいおしぼりをいくつか持ってきてくれるまで茫然自失としていた。
 ぼうっとしていた頭もおしぼりで顔を拭いているとはっきりしてきて、迷惑をかけた店員さんたちにお礼を言ってから洗面所にやってきたのだった。
 ――で、顔を洗っていたわけである。タレは意外と粘着質であることをアドバイスしておきたい。まあ、どうでもいいことだけど。
 汚れていないかもう一度確認してから、エアタオルで手を乾かしていると、ポケットの携帯が激しく振動していることに気がついた。席へ戻りながら通路で携帯を開く。
「……誰だろ? まあ、圭亮だろうけど」
 液晶を見ると、三十分ほど前から五分おきくらいに立て続けにメールが来ていたのがわかった。届いているやつを全部見てるような時間はないから、手早く今着たばかりのメールを読む。題名もなく、内容はただ一言だけ。
――死ぬな。
「おい! それでも親友か!?」
 そっけないディスプレイに向けて思わず叫んでしまう。小学校時代から付き合いのある悪友は、ぼくが吉沢に振られたことをどこからか嗅ぎつけたらしい。どうせ、吉沢の友達でもある自分の彼女から聞いたのだろう。心配してくれるのは嬉しいけど、この内容は正直ないと思う。
 どうやら、あいつとはじっくり話し合う必要があるみたいだ。女に振られたら自殺するような奴だと思われていたらしい。たしかに、ぼくはヘタレだけど、死んだりはしない。というか、ヘタレだからこそ死ねないんだ。
 ――自分で考えていて、ちょっと死にたくなった。
「でも、心配してくれてるみたいだし、これ以上引っ張るのはよくないか。この調子だと、もしかしたらあいつ警察に相談しかねないし」
 失恋程度で大事になるのは正直困る。警察に電話しないとしても、両親に伝えることくらいはありそうだ。幼馴染から両親へ息子が振られたことが伝わるのは恥ずかしすぎる。
――死んでる暇がない。ぼくはもうグチョグチョです。詳細は明日話す。
「ははは、これでやつは寝れないはずだ。不思議メールは友人を信じないようなやつへの罰に丁度いい」
 薄情な内容には同程度の薄情さで応じるに限る。小悪党みたいに笑いながら席へ戻ると、さっきまでの凄惨な有様が嘘のようにテーブルの上は片付いていた。追加注文したのだろう、新しいビールジョッキが美味そうな水滴をからだにまとわりつかせていた。
「勝手に頼んじゃったけど、構わなかった?」
「うん、気にしなくていいよ」
 正直、飲み足りないと思っていたくらいだ。丁度いい。心は弱いけど、酒には強いのだ。
「よかったー。でも、そろそろ夜も更けてきたし、帰らなくても大丈夫かな?」
「それを言うなら、高梨さんの方こそでしょ。ぼくは男だからどうにでもなるけど、女の子だし」
「ボクは全然大丈夫。家すぐそこだし、痴漢なんて恐くないくらい強いから」
 彼女は武道家みたいに指の骨を鳴らした。その手でなんにんの変態を叩きのめしたのだろう。綺麗な子だから、黙っていても男は寄ってきただろう。少しぞっとした。
「じゃあ、ぼくなんて眼中にないわけだ」
「相馬くんなんて一発だね。交番へ突き出して御用だ」
 微笑む高梨さんに背筋が寒くなる。ぼくにもちょっとした心得はあったが、どうせヘタレ。簡単に沈められてしまうだろう。多分、逃げるが勝ちだ。というか、前提として襲う勇気自体がない。情けなくてよかったってのもちょっと変だけど。
「まだ高梨さんの話を聞いてないし、飲み足りないくらいだ。付き合ってもらいましょうか」
「ボクはあんまりお酒強くないけど、お付き合いしますか。まだまだ愚痴り足りないし」
 それから本題へと入ることなく、ぼくと高梨さんは大学の講義や教官、周辺の店なんかについて話した。目の前で泣いてしまったのがよかったのかもしれない。あんな醜態をさらしてもう隠すことがなくなったぼくは、口下手なりに彼女を楽しませられたと思うし、高梨さんは聞くのも語るのも上手で、ふたりしかいなかったけれど、話に花が咲いてぼくらは楽しかった。講義の教官によってあまりに違う評価方法、教官の癖など、話題には事欠かなかった。
 その途中で、ぼくの悪友――橘高圭亮へと話が至った。洗面所から帰ってくるのが遅かった理由として、さっきのメールの話をすると、よっぽど面白かったのか、それともぼくの情けなさを再確認したからなのか、高梨さんに文字通り大爆笑された。凛々しさに似合わず腹を抱えて笑う彼女を苦々しく見ながらも、ぼくが意見できることなんてなにもなく、しばらく見世物みたいに笑われた。
 そんな楽しい酒飲み話も終わりが近くなってきたのを理屈ではなく肌で感じ始めた頃だった。そろそろ本題だなと思う。周りのサラリーマンや大学生たちが会計を済ませて出て行くのを横目で眺めながら、ぼくは美味しくなくなってきているビールを口に含んでいた。
「――ボク、あいつがね初めてだったの」
 切り出し方の唐突さに驚くことなく、ぼくは口を挟まずうなずいた。あまり意味のない行為。ちゃんと聞いていることをアピールしただけだ。
「変だよね。二十にもなって、付き合うのが初めてなんてさ」
「そうは思わないけど。似合わないかもしれないけどさ、そういうのは歳じゃないと思うし」
「ははは、確かに相馬くんには似合わない台詞だね」
「茶化すなよ。一応、真面目なんだから」
 ぼくが口を尖らせると、彼女は苦笑して謝った。こんなことただの道化だ。でも、その滑稽さがなにかの助けになるかもしれない。
「からかうつもりはなかったんだ。相馬くんがそう言っていれて嬉しいし、でも……でもさ、ボクが経験豊富で付き合ってる上での駆け引きなんかができたら、浮気なんてされなかったと思ったんだ」
 彼女の声が震え始めていることに気がついた。それはさっきまでのほがらかさと気丈さが包み隠していたもので、ようやっとそのベールがはがれてきたということだろう。
 辛くて、辛すぎて耐えられなくて、それを乗り越えてしまうために彼女も泣くのだろう。忘れたくなくても、忘れてしまおうとするのが人間なのは、さっきのぼくが身をもって体験したことだった。もしかしたら、忘れるという行為が悲しすぎて、人は泣くのかもしれない。言葉にはできないもので一杯だった心が空っぽになるのは、やはりとても辛いことなのだろう。
 それでも、泣き顔だけは見られたくないのか、高梨さんは俯いていた。ぼくはその姿から意図的に視線をそらす。強い彼女にしてあげられることというのは、多分それだけだ。そう、ただそれだけなのだ。
「相手が負うべき責任まで、君が負う必要はないと思う。陳腐かもしれないけど、高梨さんが悪いわけじゃない」
「じゃあ、なんで!!」
 彼女の叫びが、ぼくの耳を打つ。どうやら、無自覚なまま酷く傷つけてしまったらしい。高梨さんの赤くなった目に睨みつけられながら、後悔してしまう。自分がなんの役にも立たないことくらい知っていたはずなのに、ぼくは無駄口を叩いてただ傷つけただけだ。黙っていればよかったのだ。潤んだ瞳に気圧されて、ぼくは俯いた。
 涙がテーブルにこぼれていた。
「じゃあ、なんで、浮気なんかするのさっ!? 瞬はボクが見たことないくらい楽しそうだった。楽しそうに笑って綺麗な女の子とふたりで歩いてたんだ。ボク……わかんないよ。ボクが好きなら、なんであんなことするのさ。なんで? ねえ、なんで?」
 俯いたままなにも答えられず、自分の情けなさに歯噛みした。心を誤魔化すように飲んだビールは、爽快感の欠片もなくてただ苦いだけで、その苦味に眉をしかめながら、ぼくは黙っていることだけしかできなかった。
 なにか言うことはできただろう。その瞬とかいう彼氏は最低な奴だとか、好きでもないのに付き合えたりする奴だとか。でも、そんなことを言ってなんになるっていうんだ。それは高梨さんを深く傷つけるだけだ。
 周りがなんといおうと、ぼくから見たらろくでもない奴だろうと高梨さんにとっては恋人だった。それだけが事実だ。他人がもつ印象なんてのはどうでもいいことで、本当に大事なことは、当事者だけが知っている。
 それは振られてしまったけれど、付き合ったとしてもなんのメリットもないようなぼくと吉沢が付き合ってくれたように、高梨さんもその男に恋人にしてもいいなにかを見つけたから付き合ったんだろう。そこに余人は口を挟めない。
 だから、なんで付き合ったのかを知らないようなぼくに、高梨さんの身を切るような悲しみを受け止める権利はなかった。悔しいことにそれができるのは恋人だった男だけで、それゆえに彼女の声はもう受け止められることのない叫びなのだろう。
 そうやってどうしようもないことだとわかりながらも、ぼくはどうしても納得できないでいた。机を挟んでいるだけだというのに、ふたりの間はとてつもなく離れていて、それが物理的なものではないがゆえに、友達でも恋人でもなかったぼくは手を差し伸べることもできず、悔しさに身を焼かれながら、全力で自分の腿を抓るようにつかんでいた。人としてこんな苦しみをあるのだと初めて知った。
「最初はあっちからだったけど、いつかなんてわからないけど、ボクだって好きになってた。だらしがなくて、調子がいいだけで周りを困らせて、お世辞にもいい奴じゃなかった。それでも、ボクには優しくて、何回も好きだって言ってくれて嬉しかった。ボクも…………好きだったんだ」
 その体の底から搾り出すような声に、錯覚に近い共感を覚えた。別れた相手へと残っている想い。その行き場のない感情をぼくらは抱えている。それは自分でもどうしようもないものだ。それでも、ぼくは聞いてもらえただけで少し楽になれた。相槌を打ってくれるだけでよかったんだ。
「それだったら、なんで別れたんだい? 高梨さんが言わなかったら、いつか彼もさ、浮気相手と別れて戻ってきたかもしれないよ」
「相馬くんの言う通りかもしれないけど、ボクには耐えられないよ。別れようと思う前に、きみが言うみたいに考えたけどさ、ダメだったんだ。彼氏が知らない女の子と遊んでるの知ってて、それを知らない振りしてまで笑いたくないよ。そんなことしてたら、いつかあいつのこと心の底から嫌いになっちゃうでしょ」
――嫌いになる前に別れる。
 それは優しすぎるからなんだろうか。ぼくと一緒で高梨さんも逃げてるだけなのかもしれない。相手を憎むことで見られる黒いドロドロとした感情を見つめたくないだけなんじゃないんだろうか。
 その通りだろう。
 でも、ぼくらはそれが許容される青臭い若さの中で生きてる。多分、この悲しみもいい思い出として記憶されるようになるのだ。それこそ悲しいことなのかもしれないけど、どうしようもないことでもある。
「高梨さんとぼくってそういうとこ似てるのかもしれないね?」
「全然違うじゃない。ボクは振る側で、きみは振られた側。この違いわかるよね」
「なんだよそれ。優しくないなあ、人の傷抉るなんてさ」
 舌打ちするぼくを見る高梨さんの目はまだ赤かったけど、どこかすっきりしているような気がしてちょっとだけほっとした。
 多分、それは錯覚だ。まだ彼女は傷ついてるし、ひとつもすっきりなんかしてないだろう。でも、ぼくらはそんな錯覚を信じてしか生きていけないのだ。自分の物差しを頼りにしないと他人とコミュニケーションも取れないだろう。だから、錯覚だとしても、ぼくにとっては真実だった。
 好きだった彼女に振られた日。
 女の子の前で思い切り泣いた日。
 ビールの本当の苦味を知った日。
 そして、
 高梨涼香に出会えた日はそうやって終わった。




Back
Index
Next
NEWVELの投票ランキングに参加しています。
面白かったなら、ぽちっと押していただければ励みになります。

ネット小説ランキング>恋愛コミカル部門>「ボクな君」に投票
ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。(月1回)






     名前(必須)
メールアドレス(任意)
ご意見。ご感想。 何でも良いですから送ってくださいね。