夫婦の傾向と対策 初級編
はじめの一歩のためのはじめの一歩
著 南修一
1
すぐ隣で時折可愛らしい寝息が立てられるのを聞きながら、
新谷敏明はさかんに身じろぎを繰り返していた。そのかすかな
鼾いびきと絶え間ない
衣擦きぬずれの音が、静かな部屋を満たしていた。
暗闇の向こう側にぼんやりと映る天井を見つめながら、今横になっているこのベッドが自分の居場所ではないような気がして、敏明は眠れないでいる。何度も繰り返している寝返りは、少しでも自分の居場所を探そうとしている行為なのかもしれない。
そうやってもがきながら、彼はここ最近のことを思い返していた。今、自分が置かれている状況になってしまった責任の大半が、己にあることを認めながらも、わが身の不可思議さに呆れずにはいられなかった。
結婚という制度はこうも当事者たちを無視しても進むものなのだろうか、と。
「
真美子まみこ……さん、か」
背中を向けているため見ることができない同衾相手を敏明は夢想する。恋人でも、一夜のつもりで抱くような行きずりの女でもない、自分の妻の顔を。
「奥さんになっちゃうんだもんなぁ……、人のことは言えないけど、訳がわからん」
ぼやっとしていたとはいえ、結婚する際に事情をある程度聞かされて納得したふりはしたが、完全には理解できなかったことが多々あった。いくら自分が茫然自失となっていたとはいえ、もう少しやりようがあったのではと遅すぎる後悔をする敏明である。
――真美子さんの気持ちかぁ……。
元より自分以外の人間の考えを完全に理解できるなんて、夢みたいなことを思っているつもりはないが、妻となった女性の心理を少しでも手繰ることのできる端緒も見つけられないでいる。
心理的な足踏みが続くことを無駄に再確認した敏明を、不意に大きな苛立ちが襲った。
胸に起こった激情を吐き出すように頭を掻き毟り、地のそこから聞こえてくるような低い声で唸る。今すぐにでもベランダへと飛び出して思いっきり大きな声で叫びだしたかった。が、一抹の理性が残っていたのかそれは何とか踏みとどまった。
越してきたばかりのこのアパートで、変人扱いをされるのはごめんである。運び込まれた荷物を片付けるのは、半端でなく骨が折れる。
そしてそれ以上に、隣で寝入っているであろう妻に起きられても困り果ててしまう。寝起きが異常に悪いということではなく、自慢にもならないことに、敏明は真美子と長時間会話を交わしたことがない。新婚だというのに、いつも二言、三言で終わりである。なんと言葉数の少ない夫婦だろうか……。
――奥さん! 妻! 家内!
敏明はまたも大声で叫びそうになった。
心の中で吹き荒れて収まりそうにもない理不尽の嵐を渾身の力で吐き出したかった。しかし、できるはずもない。理性は良くも悪くも強固だった。
「これから、どうすりゃいいんだろ……」
つぶやきに答える声はもちろんない。
唯一答える権利があるだろう妻は、寝入ってはおらず彼の背中をじっと見詰めていた。感情がそぎ落ちているような
闇黒あんこくの瞳に、わずかだけ夫への同情が秘められているようだった。
2
新谷敏明と
姫谷ひめや真美子の結婚話が、急速に――音を立てて――進み始めたのは今から九ヶ月ほど前のことである。当事者たちがほとんど話したこともないのだから、もちろんドラマチックな出会いがあったわけではない。オーソドックスであるが、最近ことにマイナー化が進みつつあるお見合いの席での出会いだった。
真美子の父――
晃一こういちが敏明の勤めている会社の社長という陳腐な理由からの出会いである。仕事はできるが独り身で特に浮いた噂のない敏明に、晃一が自分の娘を紹介したと、社内ではそうやって理解されている。そのためか、敏明にやっかみ半分の声がかけられることも少なくない。
しかし、裏の事情はもう少し複雑だった。
●
ディスプレイの右下に映っているデジタル時計は、もう七時を過ぎていた。さっきから五回は時計を盗み見ている敏明はそのことに気づいていたが、席を立つこともなくキーボードを叩き続けている。
緊急に仕上げなければならない仕事ではないのだが、家に帰る元気がわかず、惰性でディスプレイに向かいつづけているのだった。
こうまですると誤解されるかもしれないが、敏明は真美子を嫌っているわけではない。彼女の身に起こった出来事は同情せずにはいられないし、別段嫌う理由があるわけでもない。無言の夕食の席ではあるが、作ってくれるご飯も一人暮らしの時代から比べれば、どれだけ良くなったか知れたものではない。
しかし、好きになる理由もないのだった。
傷心の真美子を守ってあげられるような王子様になる自信も理由もなかったし、強引に手篭めにしてしまうような根っからの悪人でもない。
彼の脳裏には、置かれた状況にうろたえ、一歩も進めないで右往左往している情けない自分自身の姿しか描けないのだった。
このままでいてはいけないとわかっていても、打つ手が浮かぶことはなかった。そのことを情けなくは思うが、益体のない仕事に逃避しているとしても、敏明はそうせずにはいられないのだった。
「せ〜んぱいっ! 久しぶりに飲みに行きませんか?」
仕事を手を止めて振り返ると、似合わないスーツを無理に着込んでいる学生のような童顔の背の高い青年が立っていた。
「妹尾、もう少しなんとかならないのかその格好。大学卒業して何年になるんだよ」
「五年ですけど、……なにか問題でもありますか?」
――あるよ、もう二十六にもなる男が可愛く見えてどうするんだ!?
自分の妻よりよっぽど可愛らしく首を傾げる後輩――
妹尾貴文せのおたかふみを鹿爪らしくにらんでいた敏明だったが、そんなことを口に出せるはずもなく。ただため息をついた。
「先輩、お疲れですねえ。そんなに仕事忙しいんですか?」
「お前に疲れさせられたんだよ」
可愛いなどと直接言われれば腹を立てる貴文であるが、鈍いのか歪曲的な皮肉は、――ただひとりを除いて――ほとんどこたえない。いつものことだと思いながらも、またため息が出るのは抑えられなかった。
「急ぎの仕事があるんなら、また今度でも構いませんけど」
「いや、別に今日明日の仕事じゃない。付き合うよ」
作業中だったファイルを保存し、さっさとパソコンの電源を落とした。立ち上がろうとしても立ち上がれなかった椅子から軽々立つと、オフィスにぽつぽつとしか人影がないことに気づいた。
「今日はえらく残業が少ないな」
「なに言ってるんですか、先輩。明日から休みなんですから、みんな予定が入れてあって、さっさと帰っていくに決まってるでしょ。暇で残ってるのは僕たちぐらいですよ」
そうか、休みかと敏明は思う。何も考えずに仕事をして、休日は泥のように眠りこけていた独身時代が妙に懐かしく思えた。
同僚の仕事の邪魔をしても悪いので、ふたりはそそくさと会社を出た。エアコンで管理された室内から外に出ると、寒さよりは涼しさを感じさせる春の風がふたりの体を撫でて、忙しそうに去っていった。花粉症の人間を別にすれば、一年の中でも過ごしやすい季節が訪れ始めている証拠だった。
二、三度訪れたことのある全国チェーンの居酒屋に向かいながら、敏明と貴文は他愛のない話をしている。大学時代の友人が失恋しただとか、会社の上司といまいち粗利が合わないなどである。
邪険にならない程度に相槌を打ち、敏明は空を見上げる。青々と茂り始めている街路樹の姿に目を奪われた。
ついこの間までは、なにもついていない裸の樹だったのに、と少し嬉しくなる。止まることもなく、変わらぬ速度で時は流れていくのだと実感する瞬間でもあった。
しかし、それは本当によいことなのだろうか。
敏明にはよくわからない。
「――
皐月さつきの奴がね、また僕を脅かすんですよ、先輩。小遣い減らすぞって、ひどいと思いませんか? 最近は子供もあっちの味方につくし」
まだ空をぼんやりと眺めていたところに、いきなり貴文が縋りついてきた。まだ飲んでもいないのにもう管を巻いている。
他愛もない話を続けながらも、このことをずっと言いたかったのだとは一瞬でわかったが、付き合うといってしまった以上邪険にもできない。面倒極まりないが、話すだけ話したら落ち着くことはこれまでの経験上わかっているので、まぁ、いいかとも思った。
それでも流石に、通行人がいる道路でしゃべられても困る。
「おい、妹尾! 道の真ん中で
惚気のろけるな!」
「惚気る!? 惚気るなんて冗談じゃないですよ。なんで皐月へのの愚痴が惚気ることになるんですか!」
「うるさい、さっさと入れよ、店の中に」
大声でわめく貴文を抱え込むようにして居酒屋へと連れ込んだ。長い付き合いとはいえ、店員に案内されている間も「皐月」、「小遣い」とつぶやいているのには辟易した。
テーブル席の向かい側に座らせて、ビールと枝豆をすぐに注文する。
「それで、今回はどうしたんだ?」
運ばれてきたビールを口に含んでから、敏明は訊いた。
「どうせ、しょうもないことでおさつちゃんを怒らせたんだろ?」
「しょ!? しょうもないことなんかじゃありませんよ」
貴文の妻である"おさつちゃん"こと妹尾皐月のことを敏明はよく知っている。なにせ"おさつ"なんていうあだ名をつけたのは彼だからだ。たまたま手に取った推理小説に出てくるヒロインの名前に似ていたので、遊びで呼び始めたらそれがいつの間にか定着していたのだった。
その因果か、大学時代から数え切れないほど何度も、ふたりが喧嘩をしたときは仲裁役をやらされている。それでも、皐月と貴文が付き合い始めたころは真剣に仲直りさせてやったものなのだが、あまりにも数が多くしょうもないことから喧嘩するので、ここ数年はあまり真面目に聞いてない。
「僕がつい最近まで忙しかったのは知ってますよね?」
「ああ、たしかにな。いつも俺なんかよりずっと遅かった」
枝豆を食べながら、敏明はうなずいた。
「三日前にですね、ようやく後始末も終わって、自分へのご褒美にずっと我慢してたミステリーを十冊ぐらい買って帰ったんです」
思い出していて怒りが収まらないのか、貴文は眉をしかめながらしゃべっている。
「それが小遣いを減らす云々につながるわけだ」
「そう! そうなんですよ! もうちっとも訳がわからなくて、先輩もそう思いませんか」
親の仇のように枝前を噛み砕きながら身を乗り出してくる貴文を見て、敏明は心の中でため息をついた。
――いつまで、付き合いたてのカップルみたいなことをしてるんだ。子供がふたりもいるくせに。
俯いていた顔を上げると、後輩はビールを流し込んでいた。その姿に呆れながらも、どうしても突き放せない。相性がいいというか、なんと言えばいいのか、敏明は不思議な気持ちになった。
「おさつちゃんはだな、多分拗ねてるんじゃないのか?」
「拗ねてる……ですか?」
貴文が狐につままれたような表情になるのを見て、思わず吹き出しそうになった。人懐っこさが隠せないほど現れていて、まだ大学の二回生ぐらいに見える
「おさつちゃんの身になって考えてみるとだな、お前が仕事で忙しかったからふたりの仕事である子育てを一手に引き受けてるところに、その支えてる旦那が馬鹿面見せて、玄関先で本抱えて立ってたら、誰でも腹が立つぞ」
「馬鹿面はないでしょ、馬鹿面は」
「馬鹿面で十分だ。ほんとに、にこにこと憎たらしく笑ってたくせに」
まるで見ていたかのように軽口を叩くと、貴文は少し気まずそうに目線をそらした。本当に、馬鹿面をさらしていたらしい。
「そういうもんですか……」
「そういうもんだよ、お前何年おさつちゃんと一緒にいるんだ? ちょうど休みなんだから、明日か明後日にでもふたりで出かけた方がいいぞ。子供は孫に甘い妹尾の小父さんに任せて」
「あの義父にですか……」
犬猿の仲である人間の顔を思い出したのか、貴文は「げぇっ」と思わず声を漏らした。それを聞いて、敏明はニヤニヤと笑った。
彼は目の前にいる婿とその舅の仲の悪さを聞くまでもなく何度も見てきた。唯一貴文に通じる皮肉を吐けるのが皐月の父で、顔を合わせると皮肉の応酬を始めるぐらい日常茶飯事だった。口喧嘩がエスカレートすると、もちろん取っ組み合いになる。敏明はその喧嘩を取り押さえたこともあるのだった。
まぁ、ふたりとも見事に尻に敷かれているので、適当な人がいないときは奥さんたちに止められるのだから、情けないことこの上ない。
「あのくそ親父は嫌いだけど、先輩の言うとおりにしておいた方がよさそうですね」
なんとか葛藤を乗り越えたのか、貴文は笑いながら言った。
週末の一騒動を予感して、敏明も笑った。
――しかし。
「先輩みたいな人と結婚できるなんて、社長の娘さんも幸せでしょうね」
「!?」
敏明の血の気がすっと引いた。同時に酔いも一瞬で醒めてしまった。
「僕たちみたいに、こんなつまらないことで喧嘩したりしないでしょうし」
――喧嘩どころか会話もないよ。
とは口に出せず、つぶやきは心の中だけにとどまり暗く深い底へと落ちていった。少しでも酔い直そうとビールを飲みながら、敏明は思う。
喧嘩できるような仲ならどんなによかっただろう。そんな変化の端緒になるようなものがあったなら、もう別れるか、もう少し親しくなっているかしているだろう。
平坦なのである。
落ち着きがあるといえば聞こえはいいかもしれないが、ただなんの変化もない家庭というだけだ。それでも、好きあって結婚したならそれは祝福されるべきことであるが、そのようなことは一切ない。息苦しいだけだった。
虚ろな瞳で、すぐ前で俯いて管を巻いている後輩を見つめる。事実を話したことがないのだから知らないのは当たり前だけれど、少し恨めしかった。
「結婚式の時の奥さん、すごく綺麗で羨ましかったし――」
「…………」
照れているだろう先輩をからかおうと顔を上げた貴文は、ようやく敏明の顔色の悪さに気づいた。
「先輩!? どうしたんですか、ほんとは体の調子がよくなかったとか――」
「そんなことはないさ。ちょっと驚いただけだ」
「ほんとですか……?」
焦点の合っていない目をしている敏明を、貴文は訝しげな目で見た。
「それよりも、一つ質問がある」
「なんです?」
「俺の奥さんってそんなに綺麗か?」
「……どういう意味です? その質問」
質問の意図が全くわからず、貴文は首を傾げた。
「そんなこと先輩が一番知ってるでしょうに。ぼくは結婚式のときにしか先輩の奥さんにお会いしてませんけど、とっても綺麗な人じゃないですか――」
貴文は自分の納まりが悪い髪に手をやって苦笑した。
「――式の後で、綺麗だってばっかり言ってたら、皐月に拗ねられたんでよく覚えてますよ。……あれ、この話前にしませんでしたっけ?」
自分の狼狽に気づいてないような振りをして、声を立てて笑う後輩に、敏明は救われたような気持ちになった。笑う瞬間に、こちらを心配そうに見つめた貴文の視線に気づかないほど、彼は鈍感ではない。
抱え込んでいたものを吐き出す時が来たのではないか、と敏明は不意に思った。夫婦喧嘩をあっけらかんと相談に来るこの後輩のように、自分も相談してみれば
解ほどけないように見えるあの縺れた糸が簡単に解けてしまうのではないだろうか……。
しかし、夫婦の問題である
あのこと・・・・をどこまで他人に打ち明けていいものか……
「なぁ、先輩?」
「なんです、後輩くん?」
結婚生活の後輩と先輩は顔を見合わせて互いに笑った。
それでもう決まりだった。敏明は、長い付き合いというものに初めて感謝したい気持ちになった。
「今から話すことは全部嘘だからな、こんなホラ話をうっかり口滑らせたら、俺もお前もコレだ――」
敏明はすっと親指で首を掻っ切る仕草をした。
その行為の表す意味は、もちろんひとつ――クビだ。
「やだなぁ、先輩が酒に弱いことぐらい大学時代から知ってますから、どんな話だって本気になんてしませんよ。うっかり信じたら、皐月に馬鹿にされちゃいますよ」
貴文は口調と裏腹に真剣な顔をしてこっくりとうなずいた。
一分だったろうか、それとも五分だったかもしれない――いくらかの沈黙の後、敏明はついに口を開いた。
「実はな、真美子さんの本当の結婚相手は俺じゃなかった――はずだったんだ」
3
ドアチャイムの音が鳴り響いたとき、真美子は無意識の内にリビングの時計を振り仰いでいた。
午後九時半である。夫の遅い帰宅かと思ったが、敏明だったとしたら、鍵を持っているのだからチャイムを鳴らしたりはしないだろう。一応、自分の家なのだから。
ならば、誰なのだろうか。こんな時間に何の連絡もなく立ち寄る友人に心当たりは皆無だった。セールスが来るような時間でもない。
点けていたテレビの音量をミュートにして立ち上がる。ダイニングの壁に備え付けてあるインターフォンの画面を覗き込む。
見覚えのある人影がカメラを見上げていた。手入れの行き届いた亜麻色のショートヘアを揺らしながら、こちらに向かって盛んに手を振っている。
――妹の綾葉だった。友人ではなかったが身内だ。結婚してから一度も訪ねて来なかったのに、どうして急に……。
顎に手を当てて考えてみたが、どうにもわからない。百考は一聞に如かず――である。聞けばわかるのだから、考えても無駄だろう。逡巡の後、結局真美子は玄関の鍵を開けた。
液晶越しの無味乾燥な映像とは違い、久しぶりに会う実際の妹は、いつもと変わらず元気そうだった。自分とは正反対のように思える、この可愛い妹のことを真美子は大好きだった。今も小柄な綾葉に胸の辺りへ抱きつかれて、嬉しそうに抱き返している。
「お姉ちゃん、久しぶり。元気だった?」
「ええ、元気だったわよ。ずっと可愛い妹が会いにきてくれなくて、もう少しで泣きそうだったけど――」
真美子の言葉に、彼女ではなく綾葉が泣きそうになる
「来てくれたのはとても嬉しいけど、どうしたの、こんな時間に?」
「友達と近くで遊んでたから、ついでに寄ってみたの。もしかして、お仕事忙しい?」
綾葉は瞳をかすかにうるませた。
「ううん、昨日描き終えたから、今日はずっとテレビ見てたくらい暇よ」
彼女の仕事は、イラストレーターである。といっても、お小遣い稼ぎ程度に手がけている仕事であるから、あまり大きな仕事は取っていない。久しぶりに貰った仕事も、昨日早々と片付けてしまっていた。
安堵のため息を漏らした妹を見て、真美子は自然に微笑んでしまった。友達と遊んでたなんて嘘ついて、なにを話しにきたのかしら? そんなに重要な話ってなんなの――?
「ついでの姉ですけど、可愛い妹に安物のお茶でもご馳走してあげましょうか」
「お姉ちゃんの意地悪! さっきのは気を使ったんだからね、気を! わかってる!?」
顔を真っ赤にして後をついてくる綾葉に、困惑しながらも真美子は昔に戻ったような気がして楽しまずにはいられなかった。
無音のテレビが点いたままのリビングに妹を座らせておいて、真美子はキッチンでお茶を淹れて戻った。すると、落ち着かないのかあたりをきょろきょろと見回している綾葉と目が合って、思わず吹き出してしまった。
「妙に挙動不審ね。うちに泥棒にでも入るつもり?」
綾葉はその言葉を意図的に無視し、
「お義兄さん、まだ帰ってきてないの?」
と、訊いた。
「敏明さん、ゴキブリじゃないんだから天井には張り付いてないわよ」
「お姉ちゃん、真面目に答えて!」
もしかして、浮気でもしてるのを見つけたのかしら、と妹の本当に怒っている顔を眺めて、真美子はそんな風に思った。
「今日は特別遅いみたい。多分、誰かとお酒でも飲みに行ってるんじゃないかしら」
電話もなかったので、真美子も本当はどうなのかは知らない。
「毎日、こんなに遅いの?」
しつこいぐらいに、また敏明の質問だ。
「心配してもらわなくても、大丈夫です。そうね、いつもは……八時までには帰ってきてるわ」
笑顔で答える真美子に安心したのか、綾葉はふにゃと相好を崩した。
「じゃあ、お義兄さんと仲は悪くないんだね?」
「そうね、
悪くは・・・ないわね」
幾分の含みがある答え方であったが、安心しきっている綾葉はそのことに気づけなかった。彼女が飲んでいる紅茶のかすかな苦味よりも、真美子の言葉には遥かに苦いものが含まれていたのだった。
真美子は嘘はついていない。しかし、それがイコール真ではないのである。姉の答えと妹の思いは、交差の直前で急送に向きを変えすれ違っていた。
「じゃあ、話しても大丈夫だよね……」
姉にも聞こえるような大きい独り言だった。
「なんのこと?」
促すように、相槌を打つ。
「あのね……」
綾葉は膝の上で握り締められた拳と姉の顔に何度も視線を移動させる。十数秒そうしたあと、ようやく重い口を開いた。
「
久嗣ひさしさん、帰ってきてるみたいなの」
「!」
驚きのあまり二の句が告げず、呆けたようになり真美子はただ妹の顔を見つめた。姉妹の視線が交錯する。
映像だけのテレビが流れる部屋を、沈黙の帳が完全に包み込んだ。
それは自分が結婚したのと同じくらい信じられないことだと、真美子は思った。あれからまだ一年も経っていないのに……。
――
城下しろした久嗣は、真美子の結婚相手になるはずだった男である。彼は真美子との結婚式の四日前に姿を消した。所謂駆け落ちというやつである。
そんな男が帰ってきたという話だ、真美子がなにも言えなくなってしまうのも無理はなかった。
「その話、本当なのかしら?」
真美子はぽつりとつぶやいた。
「多分、あっちのお母さんが、うちのお母さんに直接教えてくれた話だもの。気が差したんでしょ、駆け落ちなんかしちゃったから」
ならば本当なのだろう。あの人は、帰ってきてしまったのだ。駆け落ちなんてものをしたというのに、阿呆のようにひょこひょこと。
時間が与えられ驚愕から立ち直った真美子だったが、その事実に困惑せずにはいられなかった。
どうして今更――という気持ちにしか真美子はなれなかった。こんな短い時間で破局するぐらいなら、あの茶番になんの意味があったというのだろうか。
不意に怒りに似た気持ちが湧き上がってきて、真美子の顔色がすっと青褪めた。
「お姉ちゃん、もしかして、まだ久嗣さんのこと好きなの?」
思いもよらぬ言葉をかけられて、真美子は大きく目を見開いて綾葉を見つめた。
その仕草がさらに誤解させてしまったのか、綾葉の表情はつまらないことを言ってしまったという後悔に満ち満ちていた。
「ねえ、綾葉。あんなことをされて、まだ好きでいられると思うかしら?」
妹に向かって優しく諭すように語りかける。その言葉には、確かな説得力と少しの卑怯が込められていた。
「ううん、思わない」
考えるまでもなく、綾葉は首を横に振った。
「今だから言えるけど、私は彼のことそんなに好きだったわけじゃないのよ」
そう、好き合って結婚しようとしたのではなかった。もちろん嫌っていたわけではない。結婚しようとするのだから、好意は抱いていた。が、それだけである。愛していたなどとは、決して言えはしない。それは、現在も以前も同じである。
「なら、なんであんなに落ち込んだの? 好きじゃないなら別に構わないじゃない」
「あれは、裏切られたからなの」
あれは今まで生きてきた中でも最大の裏切りに違いない。おそらく、これから生きていく中でも滅多に出会えない、とびっきりの裏切りだった。
「私たちはお見合いで出会ったでしょ。あれはただの出会いの場で、昔の政略結婚じゃないんだから、断ることもできたじゃない。駆け落ちするぐらいの恋人がいるんなら、お見合いに出てこないのが普通で、それが礼儀ってものだわ。もし、恋人のことを両親に打ち明けられなくて無理矢理にだったとしても、実は恋人がいるんですって言ってくれれば、私の方から断ったわよ」
なのに、と真美子は思う。どんな理由があったのか知らないけれど、恋人がいることを隠して、結婚をしようとしていたのだ。そして、直前に逃げ出した。その上、その逃亡生活からも逃げ出して、帰ってきてしまったのだった。
「でも、好きじゃなかったらあそこまで落ち込まないと思うんだけど……?」
綾葉はまだ納得がいっていないのか、更に言葉を重ねた。
「好きじゃなかったけど、信じてたもの」
「信じてた?」
「彼となら、理想とは言わなくても、それに近い結婚生活を送れるんじゃないか、って。恋や愛なんてよく知らないけど、私も女だから結婚生活には夢があったの――」
真美子は紅茶を飲んで、熱い息を漏らした。衝撃のせいだろう。いつになく饒舌になっているのが、自分でもよくわかっていた。
「綾葉にはわからないかもしれないけど、恋愛小説の中で繰り広げられる劇的な恋愛だけがすべてじゃないって、お姉ちゃんは思うわ。お見合いみたいな愛のない結婚でも、別れちゃう夫婦もいれば、おしどり夫婦になる人たちもいるでしょ。お互いのことをなにも知らなくても、信じあって一緒に生きてたら、いつか『なにか』が見つかるんじゃないかしら」
その『なにか』が、いったいなにかは真美子も知らない。やはり『愛』なのかもしれないし、別物かもしれない。ただ確かなのは、それを探し始める前に、二人の間でもっとも大切なものが失われてしまったことだった。これ以上ないほど手酷く裏切った人間のことをまた信じられるほど、彼女は聖人ではない。それを責められる人はいないだろうし、また責めようとする人もいないだろう。
「じゃあ、今はその『なにか』をお義兄さんと探してるってわけね?」
「…………そうね」
綾葉の何気ない一言が、真美子の心の急所を抉った。ひび割れた能面を見られるのが嫌で、彼女は顔を伏せた。
――違う、とは言えなかった。そんなことを喋ってしまえば、家族を心配させてしまう。それにはまだ早すぎる。
欺くための結婚とはいえ、騙し方にも上手い下手というものがあるだろう。真美子は、もう無駄なごたごたは御免だった。
意味もなく裏切られ、真美子はもう信じることに疲れていた。彼女も、信じるに値する人間がこの世にいるだろうことぐらいわかっている。しかし、実際には信頼に値しない人間がいることも、また事実だった。
飴と鞭の繰り返しで、人間は生きている。なにが辛く、なにが楽しいかは人それぞれだろうが、生きているからにはそれらは波のように寄せては返していく。結婚だって同じことだろう。
ただ、真美子は始まりであまりにも強く鞭で打たれてしまい、飴を待つ気が挫かれてしまったのだった。
ならば、どうして再び結婚したのか。もうしたくなかったはずなのに……。
――母さんと綾葉があまりにも優しすぎるから、としか真美子には言えなかった。心配される方が心配する方に回ってしまうほど世話を焼いてくれるから、安心させてあげようと自分もがんばってしまう。
その結果が、二度目の結婚だった。
再婚も失敗してしまえば、もう母も妹も無理に結婚を勧めてこないだろう、というのが真美子の考えだった。夫になる男には悪いと思ったが、父からは社内の人間だということを聞いていたので、女を出世の糸口にするような男に同情する余地はないということにした。クビになるかもしれないが、そんなことは彼女の知ったことではなかった。
だから、彼女は自分の名前を署名した離婚届を持っている。結婚した一週間後に役所からもらってきて、震える手で自分の名前を書いた。初めてのはずなのに、二回目のような気がしたことを、真美子ははっきりと覚えている。今は机の上から四番目の引き出しで、じっと己の出番を待っていることだろう。後は夫に渡すだけだった。
しかし、もう三ヶ月以上眠らせたままでいる。最初の二ヶ月は家族に不信感を与えないための準備期間だったのだが、ここ最近はなぜか渡そうとする気が湧かないのだった。
自分でもその理由はよくわからなかった。鍵をかけてある四段目の引き出しが妙に重いのだ。紙が急に鉄に変わるはずはない。だから、それはやはり彼女が乗り気でないからなのだろう。
ようやくここ数日で、そのなぜかがわかり始めてきたような気がした。それは今月に入ってからの夫の変化だろう、と真美子は当たりをつけている。
最初の二ヶ月、敏明は人形のような男だった。表情はほとんど変化がなく、こちらからなにも言わなければ一言も喋ろうとしなかった。予想通りの男だと思い、少なからず軽蔑した。
それが春めく季節になって、急激に変わった。料理の後片付けなどをしていると、不意に背中への視線を感じて、急いで振り返ってみれば敏明がじっと見つめていたりすることもあった。そんな時視線が合うと、敏明の滑稽なほど慌てる姿が、可愛く見えてしまうのが不思議だった。
真美子は敏明のそんな変貌にとても興味が湧いた。性格が一変してしまったその理由はなんなのか。出世のための結婚ではなかったのだろうか。いくら考えても、その問いに対する答えは出てこなかった。
ただ、彼が悩んでいるのだろうということだけはわかっている。時折、寝付けないのか寝返りを繰り返してはため息ばかりついているのを何度見ただろうか。その都度、起き上がって「どうしたの?」と訊ねようとする自分をどれだけ抑えただろうか。今度は自分が裏切り者になるというのに、どこにそんな権利があるだろう。
「お義兄さん、まだ帰ってこないね。……遅いんだね」
十時を回ろうとしている時計を見上げて、綾葉がつぶやいた。
「そうね、本当に遅いわね。こんなに遅いのは初めてだわ」
相変わらずミュートにされたままのテレビの中で、よく知らない芸人が陽気そうな表情で喋っている。面白いのだろうか、それともつまらないのか。観客の声すら消去されているテレビは、ただ映像だけを伝えている。
やはり、聞いてみなければ答えなんてわかるはずもないのだろう。
4
「――ということなんだ」
ようやく敏明の長い話は終わった。空になったビール瓶が二本、三本と転がっている。
敏明は深い息を漏らした。
――安堵のため息である。
誰にも打ち明けることができなかったことを打ち明けることができ、久しぶりに心が軽くなった。あくまで気分だけのことであるが、晴れないよりはよっぽどましだった。
「その話、本当なんですか? 信じられないなぁ、ぼくには。あんな綺麗な人を棄てる野郎がいるなんて、先輩がぶん殴ってやったらどうなんですか?」
話の間はビールを飲みながら黙々と耳を傾けていたのだが、よっぽど腹に据えかねるものがあったらしい。貴文の口調は酷く荒々しかった。敏明などよりも彼の方が、よっぽど真美子のことを思い遣っているのかもしれない。
「まあ落ち着けって、妹尾。俺が相談したかったのは、その男をどうするかじゃなくて――」
なだめようとする敏明に、貴文は激しく噛みつく。
「落ち着けとはどういうことですか!? 怒ればいいんですよ、先輩も。そんな男に対して腹立たないんですか?」
腹が立たないといえば、嘘になる。責任感のなさは同じ男として看過できるものではないし、どうしてお見合いの上に駆け落ちという意味のない行動をしたのだろうか、と不思議にさえ思えた。
――しかし。
その男と自分との間に、軽蔑できるような違いは存在しているのだろうか。
城下は愛のない結婚から逃げ出して真美子を傷つけ、敏明は愛の無い結婚を続けて同じく真美子を傷つけている。ふたりとも、真美子の思いを無視しているという点では同じではないかと思うのだ。そんな人間に、同類のことを悪く言う資格があるわけがない。知らず、貴文が羨ましくなる。
「なぁ、妹尾。俺はどうしたらいいと思う?」
「そうですねー、まず住所を調べないといけませんねぇ。住んでるところがわからないと、どうしようもありませんから」
貴文は唇を大胆に舐めて、言った。
「はぁ…………?」
「心配は要りませんよ、先輩。ぼくの知り合いに探偵がいるんです。優秀な奴らしいですから、一週間もあればお釣りがきますよ。お金が気になるんだったら、ぼくが半分出してもいいですから。やっぱりこういうのは奥さんにばれたら、格好が悪いですからね」
ぺらぺらとひとりしゃべり続ける貴文。敏明にできることは怪訝そうな顔でみつめることくらいだ。
「お前、なんの話をしてるんだ?」
敏明以上に、貴文が不思議そうな表情になる。他人から、人は二本足で歩いているんだということを改めて教えられているようなときの顔だった。
「そいつへの制裁をどうするかに決まってるじゃないですか、それ以外になにがあるっていうんですか?」
「誰がそんなことを訊いたんだよ!? もう二七になるんだから、そんなことしてたまるか!」
強く机を何度も叩いて怒鳴りつける。そんな敏明を貴文はいたずら好きな少年のような顔で見上げた。
「覆面すればばれませんって。誰かに気づかれたとしても逃げればいいんですよ」
少しの間違いも見当たらない公式を発見した数学者のような、揺るぎの無い自信に満ち溢れた口調だった。
「もしも捕まってみろ、俺はおさつちゃんに一体なんて言えばいいんだ」
頭が痛くなってくる。こんなことを聞きたかったわけじゃないというのに。
「心配しなくても大丈夫でしょ、皐月だったらきっと誉めてくれますから」
そんなことあるかと否定したかった敏明だったが、不幸なことにそれほど的外れではないなと思ってしまい、思わず口をつぐんでしまった。
「じゃあ、先輩はなんのことを訊いたんです?」
貴文はグラスに注いだばかりの最後の一杯をおもむろに空けて、訊いた。
「だから、俺がこれからどうしたらいいかに決まってるだろ!」
「――そんなことは知りませんよ」
貴文はあっけらかんと答えた。
「な、に……?」
混乱する。世界が反転したような驚きが敏明を襲っていた。
「先輩がどうするかをアドバイスするなんて、ぼくが責任を負うには重すぎますよ。ぼくには妻ひとりと子供ふたりを支えていくのが精一杯です――」
子供はまだ増えるかもしれませんがね、と言って貴文は笑う。
「――それに、先輩がずっと考えてることにそんな簡単に答えなんて出せませんよ」
コップを右手に握り締めたまま、敏明は固まっている。
「それは、それは……」
あまりにも冷たすぎるじゃないか、と敏明は心の中で叫んだ。押してくれよ、背中を。そうしてくれなきゃ、俺は歩き出せないんだ! 駄々をこねて、叫びだしたかった。
「どうせ、先輩はもう自分がなにをすべきなのか、わかってるでしょ。ただ迷ってるだけなんだ。ずっとメニューが決められない子供みたいに。ぼくは先輩のお母さんじゃないんだから、そこまで責任持てませんよ」
「…………」
敏明は無言のままビールを呷った。
「ぼくから言えることはひとつだけです。ぼくが言える義理じゃないかもしれませんけど、一人合点してないで、奥さんと話し合ってみたらどうです。結局、先輩がひとりで思い詰めちゃってるだけなのかもしれませんし。これは私的な感想ですけど、ぼくはあんな綺麗な奥さんと別れちゃうのはもったいないと思うなぁ」
もう一度、もったいないと繰り返してから、貴文はにっこりと微笑んだ。酒はもうない。追加を頼む気もなかった。ふたりだけの飲み会は終わりのようである。グラスを握り締めて俯いたままの敏明の表情は、誰にも――自分自身ですらも――わからなかった。
●
駅前で貴文と別れ、家への道を敏明はひとりで歩いている。タクシーでも捕まえて帰ろうかとも思ったが、気が進まず、徒歩で帰ることにした。
空にはかすかに薄雲がかかっていたが、月の明るさを妨げるほどではない。夜空に浮かぶ三日月は雲の薄衣を羽織りながらも、その優雅さを微塵も失っていない。道の両脇に立っている電柱の灯りと、遠くに見えるさっきまでいた歓楽街のネオンの明るさが邪魔に思えるほどである。
敏明は両手をぶらぶらと振って、空を見上げている。月の白と夜空の黒のコントラストが、妙に心に染み入ってきた。久しぶりに、なにも考えず美しいものを眺めている気がする。
さっきまでは、後輩に思いっきり無責任に投げ出されてくさってやろうかと思ったが、あまりにも大人げなかったのでやめた。よく考えてみれば、貴文の言ったとおりなのだろう。
おそらく、大学時代から付き合いのあるあの騒がしい夫婦にも、理由はどうであれ、夫婦の危機という程度で言えば今の敏明たちに似たような状況も、数年間の結婚生活の中ではあったのではないだろうか。当人ではないからわからないが、本気で別れてやろうと思ったことも一度や二度ではあるまい。その度に、貴文と皐月は自分の判断で乗り越えたに違いないのだ。夫婦なんて、そうやって傍目にはわからない苦労を背負っていくものなのだろう。
恋や愛だの目に見えないものでくっつく他人同士である――その間に訪れる危機が、子供や財産のような目に見えるものだけでもたらされないことは当たり前なのかもしれない。
結局、自分たちの尻拭いは自分たちにしかできないということなのだ。どういう道を選び取るにしても、他人任せではなにも進みはしない。変えることができたのだと思い込んでいるだけだ。
だからこそ、何ヶ月も時間をかけてしまい遅すぎたのかもしれないが、敏明と真美子も動き出さなければいけないのだ。冬眠している熊も春になれば起きるしかない。いつまでも寝ていられるわけではないのだ。どんな理由からにせよ、やがて起きる。
――どうせ、先輩はもうなにをすべきなのか、わかってるでしょ。
不意に、居酒屋での貴文の言葉が思い出された。流石、長い付き合いだと敏明は思う。そのとおりなのだから、恐れ入る。
敏明はスーツの内ポケットを探った。一通の粗末な茶封筒が、彼の手に握られている。その中の何枚もあるうちから、慣れた手つきで一枚の書類を抜き出した。
白の紙に、様々な要綱を書き入れるための緑の枠が印刷されている。
――離婚届だった。
真美子の名前は書かれておらず、敏明の名前だけが書き加えられてある。神聖な巫女がするようにその書類を月に掲げた。月光で薄い書類が見事に透ける。その行為は自分で想像していた以上に、あまりに儀式的でできすぎているように思われた。
「ぷっ、はははっ」
思わず笑いがこみ上げてきて、敏明はさっさと茶封筒の中に離婚届をしまった。劇の主人公のように持っていたものを空に掲げてみたが、手の中のものは宝でもなければ剣でもない。ただの紙切れである。笑うつもりはなかったのだが、必要以上に悲愴ぶっている自分がおかしかったのだった。
――まあ、なるようになるさ。妹尾じゃないけど、ひとり相撲とっても仕方ない。
後輩に背を押され、覚悟はもう決めた。後は野となれ山となれではないが、なるようになるに違いない。真美子さんの考えもあるだろう、と敏明は思う。
「それより、本当にぼくの奥さんは綺麗なんだろうか……」
汚すことなど到底不可能な白い月に、己の妻の姿を夢想する。手足は細長く、色は抜けるように白かった気がした。しかし、正確なところは思い出せなかった。胸は大きかっただろうか、小さくはなかったはずだ。顔はもっと酷く――目も、口も、鼻も、耳も曖昧模糊として霞がかかっているようで思い浮かばない。ただ一枚の絹のような滑らかな艶を持った黒髪だけは、覚えていた。
ふと、俯いていた顔を上げると、マンションに着いていた。よほど、考えごとに集中していたらしい。
敏明たちの住む部屋は四階だった。もう遅いからだろうか、ロビーには人影ひとつなく、気兼ねすることなくエレベーターに乗り込んだ。隣や同じ階の人たちには、付き合いやすい人が多いようで言葉を交わすことも苦ではなかったが、遅い時間に酒で赤くなった顔を見られるのは、少々恥ずかしかった。
重力の手荒な歓迎を受けて、エレベーターから出る。手前から四つ目が彼らの家で、辿り着く十数秒の間に鞄から鍵を取り出した。それを穴にさそうとしたとき――
扉から先に開いてきた。どきり、と心臓が強く打った。ドアで顔を打たないように一歩下がると、後をついてくるように開いてきた。
「じゃあね、お姉ちゃん。会えなかったお義兄さんによろし――!」
扉と壁の隙間から顔を現した女性と、当然のように目が合ってしまった。可愛らしい
女ひとである。短めに切りそろえられた髪型が清潔感を漂わせており、大きく円らな瞳には人を惹きつけて離さない愛嬌がある。そのことは彼女も心得ているのか、特徴を際立たせる着こなしをしている。姿に見覚えはあるのだが、すぐに名前は出てこなかった。それでも、さっき聞こえた声から、彼女の妹であることだけはわかっている。
――綾葉……ちゃん、だったっけ?
心の中で首を捻る。外れてはいないような気がした。
「こんばんは、もしかしてぼくになにか用事でも?」
驚きからまだ立ち直れていない義妹に、とりあえず声をかけた。
「あ、え、別によ、用事はありませんでしたっ!?」
しどろもどろな口調で喋り、さかんに頭を下げる綾葉の姿に、思わず笑みがこぼれた。ぴょこぴょこと同じ場所で飛び跳ねている兎みたいに可愛い。無意識の内に、手を差し伸べてあげたくなる。
「頭を下げなくても、遅い時間に帰ってきて待たせたのはぼくなんだから」
「いえ、あの、これは癖みたいなもので、……じゃ、じゃあ私、もう帰ります」
もう一度頭を下げてから、綾葉はエレベーターのほうへと歩み去っていった。その背中はそんなに狭くはないのだが、必要以上に小柄に見える。
「本当に用事はなかったの?」
後姿に、敏明は声をかけた。綾葉はくるりと振り返り、無言で一礼して去っていった。
あまりにそちらへと意識が集中していたせいか、敏明はごく自然と玄関へと入ってしまった。彼が靴を脱ぎ始めたところへ、
「お帰りなさい、今日は遅かったですね」
「ええ、ちょっと後輩と飲んでたら意気投合しちゃって。あんなに可愛い妹さん待たせてるんなら、早く帰ってくればよかったよ」
「私とはなにもかも正反対の妹で、自慢なんです」
「そうだね、確かに可愛い女の子だっ……た?」
靴の片方をまだ履いたまま、敏明は固まってしまった。不意打ちだった。いや、正確に言えば不意打ちであるはずないのだが、彼にしてみればそれ以外の言葉は見つけられなかった。ぎぎぎ、と音を立てるようにゆっくり中腰だった姿勢を直し始める。蛍光灯の光を後ろに背負って立っていた真美子と視線があった。
「どうしたんですか? いきなりおかしくなって」
「…………」
答える言葉もなく、敏明はただぼうっと突っ立っていた。いや、これは魅入られているのだった。
傷ひとつない白磁の肌が、仄暗い闇の中でぼうっと浮き上がっている。切れ長の強く引き絞られた瞳は莢のようで、きつい印象を与えかねないのだが、奥に秘められている優しい眼差しがその鋭さを中和していた。唇はふっくらとしていて、つい手を伸ばして触れたくなるような魅力があった。
あの唇に一度口付けているのだと思うと、敏明はなぜか誇らしいような気恥ずかしいような気持ちになってしまい、顔を赤く染め上げた。酒を多く飲んできて、本当によかったと思った。
「あのー敏明さん? 気分でも悪いんですか? お水でも持ってきましょうか?」
「…………」
言葉が見つからず、敏明はただ首を横に振った。納得できなかっただろうが、真美子は動くのやめ、腕を組んで頬杖をついた。
唾を音を立てて飲み込む。口の中はからからに乾いていた。気分は悪くなかったが、水は欲しかった。
今から言うことが正しいのか、正しくないのか、敏明は知らない。だから、とりあえず口にすることにする。結果は後からついてくるものだから、それにどうせこの結婚自体が失敗なのだ。駄目でもともと、である。
「あの、真美子さん」
「はい、なんですか?」
真美子は首をかしげて、問うた。
「明後日――日曜日、デートに行きませんか?」
「…………へっ?」
真美子は目を丸くする。
妹尾、お前の言うとおりで癪だけど、俺の奥さんは困ってる顔も綺麗だよ――などと敏明は馬鹿らしいことを思った。
5
かすかなまどろみもなく、真美子はすっきりと目覚めた。だるさも頭痛もなく、まさにパーフェクトである。白紙答案みたいに完璧だ、と天井を見上げながら真美子は思った。信念のない八〇点よりも信念のある白紙の方が、視覚的に数倍美しい。
彼女の明白な思考とは反比例して、部屋の中はまだ薄暗かった。寝室の窓にかけてある白のカーテンは、それほど分厚くない。だから部屋の中が特別に暗いわけではなく、太陽が充分に上がっていない時間なのだろう。
寝返りを打ってうつ伏せになる。枕元にあるデジタル式の時計は、「5:23」という時刻を表示していた。
真美子はどちらかといえば早起きである。三ヶ月の結婚生活で敏明より遅く起きたことはなかったし、実家にいたときもよく母親を助けていたほどだ。が、この時間はあまりにも早すぎる。
少しの逡巡の後、真美子は再び目を瞑った。隣からかすかに聞こえてくる夫の寝息以外に、リビングにある時計の音が聞こえてきているような気がした。
カチ、カチ、カチと断続的に聞こえる。音は小さいながらも、確かに。
リビングとベッドルームの間には充分な距離と厚い壁がある。明らかに幻聴であった。
しかし、幻だとしても音は頭の中での反響をやめようとはしない。
――カチ、カチ、カチ……。
真美子は音から逃げるように布団の中へともぐりこんだ。ぎゅっと縮こまった体勢になる。
眼を固く閉じて、頭の引き出しを乱雑に開けていく。沢山のガラクタを掻き分けても、眠気という大切な宝物は見つかりそうになかった。もしかしたら、五年後ぐらいにひょこっと出てくるのかもしれない。やぁ、ようやく眠れますねって挨拶しながら。
そのまま数分間横になっていたが、どうにもいけない。結局起きることにした。昔から、早起きは三文の得という。でも、と真美子は起き上がりながら思った。三文っていくらぐらいなのかしら? 三〇〇円ぐらいだったら眠れた方が得のような気がするけれど……。
「ううっ、寒い……」
春の気配が濃厚になってきているとはいえ、早朝はまだ寒い。ベッドから出た真美子は、自分の体を抱きしめながらつぶやかずにはいられなかった。
少しでも寒さを紛らせようと、近くにかけてあったナイトガウンを空色のパジャマの上に羽織る。その上着も外気に長い間晒されていて冷たかったが、ないよりはましである。彼女は小走りで動き出す。
寝室から出る時、振り返ってみたら夫の熟睡している姿が目に入った。数日前とは、立場が完全に入れ替わってるなぁ、と真美子は思い、かすかに苛立つ。
――あんな提案をして、私を困らせてるくせに。
夫への愚痴が心を満たす。見ていないことをいいことに、べーっと舌を出してやる。もやもやとした気持ちが体に充満していく。気持ちよくはない。
――そうだ、シャワーでも浴びて気分を切り替えようかしら。
真美子は閉まっている扉に向かってうなずいた。
冷たい床のタイルが熱いシャワーに打たれ、濃密な霧をもうもうと立ち込めさせている。むせるほどの蒸気が、真美子の体を包み込んでいた。
かすかに痛みさえ感じさせるほどの熱いシャワーは、思った以上の爽快感を彼女にもたらしていた。頭がクリアになる。さっきまでの感情も流されていく。ベッドでだらだらと横になっているよりも断然よかった。上から下へと自分の体を流れ落ちていく水流が、妙に気持ちよかった。
心の中にまで染み込んだシャワーが、真美子の記憶の皮をめくっていく。彼女はあの夜――金曜日の深夜のことを思い返す。
――日曜日、デートに行きませんか?
思い出しただけなのに、真美子の胸は強く打った。何度この作業を繰り返しても、衝撃は薄まらない。想像以上のハードパンチである。シャワーに打たれている顔を何度も左右に振った。頬が焼けるように熱い。
あの夜、夫の言葉からどれほどの時間が経っていたかは覚えていないが、真美子は「はい」と答えていた。
答えを口にするまでの時間――真美子は敏明と正面から見つめあった。なぜか、互いに視線をそらせようとはしなかった。ふたりとも、瞳の奥に透けて見える相手の本心を見つけたかったのかもしれない。後付らしくいささか格好のよすぎる言い訳だ。だから、そんなものはもちろん見つけられなかった。なにせ、本心なんてものの存在すら怪しい。自分の気持ちもよくわからないのに。
夫の瞳に移っていたのは、自分の姿だった。どちらも不意にそのことに気付き、お互い恥ずかしかったことを覚えている。
どうして「はい」と答えたのか、実のところ真美子もよくわからない。別段断る理由もなかったからかもしれない。ただ好奇心を刺激されたことは事実だった。ここ一ヶ月間疼いていた興味の虫が、捌け口を見つけて激しく騒いだ。
だからといって、好きなのかと問われれば、首を振ってしまうような気がする。まだ頑なに身を縮めて震えているもうひとりの自分が、胸の奥で警告を発しているのだった。敏明が本当に信じられるのかなんて、まだわからないのだと。
でも、もしかしたら信じられるのじゃないかしら、と期待しているのもまた確かだった。いや、信じられるというよりも信じたいのかもしれない。やり直せるのかもしれないと希望を抱いてしまう。どうせ裏切られるのに決まってるのに、もうひとりの自分がまた囁く。
コックを捻って、シャワーを止めた。真美子の傷ひとつない滑らかな肌を水滴が、一粒、二粒と落ちていく。彼女はその様子をじっと見つめる。
――私の嫌な気持ちもこんな風に少しずつなくなってしまえばいいのに。
自分を見つめるのが嫌になって、真美子はバスルームから飛び出した。置いてあったバスタオルを乱暴につかみ、いい加減に長い髪を拭いていく。当然、落ち着きのないぼさぼさなものになってしまう。知らず、ため息が漏れた。
――初めてのデートなのに、こんな格好じゃだめだわ。
まず、髪を直そう。それから、なにをしようか。体を動かしていれば、気も紛れるかもしれない。今、何時ぐらいかしら? 多分、まだ六時になるかならないかといったところだろう。時間だけは沢山あった。
――お弁当でも作ろうかしら、出かけるのだったら。
思いつきにしては、かなりよいもののように思えた。絵を描くことの次ぐらいに、真美子は料理に自信があった。敏明も喜んでくれるかもしれない。
落ち込んでいた気分がゆっくりと高揚していく。楽しい考えが次々に浮かび、陰鬱な思いが隠されていく。なにを作ろうかしら。昨日、買い物に行ったばかりだから、材料は沢山あるわね。敏明さんに嫌いなものがなければいいんだけど。
女心と秋の空。山模様にも似ているかもしれない。どんよりと曇っていた空に、もう陽が差している。今にも口笛を吹きそうなほど、真美子はニコニコと微笑んでいる。
●
――うわっ!?
寝ているところへいきなり刺激を受けて、敏明は文字通り飛び起きた。矢も盾も堪らずに、深く布団をかぶろうとする。
「敏明さん! 朝ご飯できましたから、起きてください!」
誰だ? などと思う暇もなく、布団を剥ぎ取られた。寝起きの力は驚くほど役に立たない。空しく虚空で手が開いたり閉じたりしている。
――まぶし……い?
視覚的刺激に晒されて数秒――ようやくそれが日光だと言うことを理解できた。それでもやることに変わりはない。さっきまで被っていた布団を必死で捜し求める。しかし、見つかるわけはない。もう相棒は囚われの身だ。
「敏明さん、おはようございます」
「…………」
寝ぼけ眼のまま、声のした方を見上げる。声は出していないけれど、真美子が笑っているという見たこともない光景が、動き始めていた脳に急ブレーキをかけた。夢だと錯覚して、思わず頬をつねる。力は強くないかもしれないが、手加減ができていない。敏明は己の人差し指と親指に渾身の力を混めていた。
もちろん、痛い。――というか、痛すぎる。
「あげら! ぼらふべれば!!」
痛さのあまりその場で飛び跳ねながら、この意味不明な言葉は冥王星人ぐらいには通じるかもしれないとぼんやり思った。そんな馬鹿な思索も思わず止められる。
「ぷっ、はははは――」
布団を抱えたまま、ベッドの脇で真美子がしゃがみこんでいた。顔を布団に押し付けても抑えきれない笑い声が敏明の耳に届いている。
「――と、しあきさん、ごめんな、さい。私、どうしてもおかしくて」
話しかけられて、急ブレーキがかかっていた敏明の脳みそにアクセルが踏まれる。しかし、あまりにも勢いよく踏みすぎたからだろうか、見えない煙を黙々と立ち上げていた。完全におかしくなっている。通常の行動が取れず、敏明はただ唖然として、自分の妻を見つめることだけしかできなかった。
「真美子さん、朝からとても元気だね」
ようやく口にできた一言もえらく間が抜けたものだった。自分の頬を思い切りつねるような男には、似合いの台詞かもしれない。
「え、は、はい。朝早く目が覚めましたから、元気ですよ」
やっと笑いが収まったのか、真美子は立ち上がった。しかし感情の名残だろうか、頬がまだかすかに緩んでいる。
まだ焼けつくように痛む頬を撫でながら、敏明は改めて妻を観察した。胸にリボンがあしらってある水色のワンピースの上に、ピンクのエプロンを着ている。胸の上辺りが少し開いていて、鎖骨がのぞいているのが眩しかった。
「朝ごはんできてますから、着替えたらちゃんと着てくださいね。二度寝なんかしたら駄目ですからね?」
「はいはい、わかりました」
欠伸をして、伸びをしてから立ち上がる。ベッドの頭にある窓から外の様子が見えた。絵の具で塗ったかのような一面、青い空である。少々暑くなるかもしれないが、夏とは違い春は湿気もなく過ごしやすい――絶好のデート日和だった。
「いい天気でよかったですね」
振り返ると、真美子も同じように外を眺めていた。敏明の錯覚かもしれなかったが、さっきよりも表情が強張っているように思えた。
「ええ、雨が降ったら最悪でしたよ。外ですから」
そのことに気づかない振りをして、敏明は答えた。
「まだ支度がありますから、私もう行きますね。早く来てくださいよ」
「わかってますって――」
敏明は真美子を見送る。そのまだ固さの残る背中に、
「あ、忘れてました。おはようございます。真美子さん」
彼女が振り返る。かすかな笑み――口を開いた。
「おはようございます。もう私は、二回目ですけど……」
「はは、まいったな。ぼくは寝起きが弱いから」
頭を掻いて苦笑する。敏明の言い訳に、真美子は笑みを深くした。
「じゃあ、早く着替えてくださいね。朝ごはんは温かくないと美味しくないですから」
今度こそ見送る。扉が閉められてから、ようやく敏明はパジャマのボタンを外し始めた。
ベッドルームまで届く味噌汁の美味そうな匂いが、彼の作業を急がせた。
真美子が作った朝食は思いの外美味かった。味噌汁の実は大好きな豆腐と油揚げだったし、ご飯も硬めに炊けていた。簡単そうに見えて難しい卵焼きもふんわりとしていて優しい味だった。胡瓜の浅漬けも美味い。ただ鯵の干物の裏が焦げていたのは少し減点である。しかし、それも敏明を起こすのに手間取ったせいなのだから、彼に文句が言える筋合いではない。
そして今は、淹れてもらった茶を飲みながらニュースを見ていた。よくわからないが、真美子はまだキッチンでいそいそと働いている。最初は片付けかと思っていたが、それには長すぎる。その上、彼女はまだ朝ご飯を食べていないのではなかろうか……。
「あのぅ、真美子さん? 台所でずっとなにしてるの?」
気になってニュースに集中できずそわそわしていた敏明は、ついに我慢できず問いかけた。
「掃除だったら今しなくても、今日帰ってきてからでもいいしさ。真美子さん、まだご飯も食べてないんじゃないの?」
少し遅れて答えが返ってくる。その声は思ったよりも軽い。
「あ、あのですね、私は今お弁当を作ってるんです。それにご飯は敏明さんが起きるずっと前に食べましたから、大丈夫です」
ぼくが起きる前に食べたんじゃ今ぐらいにお腹が空くんじゃないか、と敏明は思ったりもしたが、それ以上に「お弁当」という単語が彼の心を打ち抜いた。
――デートで女の子がお弁当を作ってきてくれたことが今まであったろうか、いやなかった。というか、デート自体が久しぶりだしなぁ。
思わず、敏明は笑みがこぼれた。ますますテレビから心が遠ざかっていく。にやけすぎて気持ち悪いほどである。
このことからわかるように、敏明はもう完全に開き直っている。金曜日の夜から、彼はもう悩むことはやめたのだった。今の彼ほど、ケセラセラという言葉が似合う男はいないだろう。まぁなんと言えばいいか、単純である。
賢いとか馬鹿とかいう問題は別にして、元々敏明はあまり悩んだりする性質ではない。どちらかといえば、竹を割るような性格に近い。極めて気持ちのいい男である。だから、貴文のような後輩にも受けがよかった。そんな彼も結婚に関しては、悩まずにはいられなかった。なにせ、相手は社長の娘である。下手なことをすればクビにはならずとも、無事ですむことはないだろう。世の中、綺麗事だけでは渡っていけない。
しかし、もう諦めもついた。最悪クビになったとしても、すぐ再就職の口が見つけられる程度には、有能であるのが救いだった。
「ま、み、こ、さーん」
湯飲みを返すふりをして、台所を覗き込む。ちょうど支度を終えたのか、真美子はエプロンを外そうとしているところだった。
「あれ? もう終わっちゃったの?」
「ええ、片付けに時間がかかっちゃって。作るのはもう随分前に終わってましたから」
「お弁当っておにぎり? それともサンドイッチだったりする?」
キッチンのテーブルには、黒とオレンジのランチボックスが置いてある。長方形で二段重ねになっていて、隣にはそれらを入れるための手提げ鞄も並んでいる。ふたつとも蓋はしっかり閉じられていて、超能力でも使わない限り、中身はわかりそうにない。
「教えてあげません。秘密です」
「ええ!? どうしてさ!」
敏明は大袈裟に不満を表した。少しわざとらしかったかなとも思う。
「敏明さんもこれからどこに行くのか教えてくれませんでしたから、これでおあいこです」
そう言うと、真美子はランチボックスを鞄の中にしまいこんだ。
「じゃあ、仕方ないか。お昼までの楽しみだ」
「ええ、楽しみにしていてくださいね。私もどこに連れてってもらえるのか楽しみにしてますから」
微笑む真美子から視線をそらし、時計を見た。もう九時も半ばである。そろそろ出かけたほうがいいかもしれない。人でごった返すような場所ではないが、着くのが遅れて社内で弁当を食べることになったのではいただけない。
「そろそろ行こうか、お昼は向こうで食べよう。それに、なにかシートみたいなものを持っていった方がいいかもしれない。まあ、それはぼくが車に積んでおくけど」
確か、レジャーシートは玄関にしまってあったはずだ。
「なら、私ちょっと着替えてきますね。これ一応部屋着ですから」
真美子から弁当箱の入った鞄を受け取って、玄関に向かう。下駄箱の一番下の段の奥に、レジャーシートは畳まれてあった。
右手に鞄を持ち、左脇にシートを挟んで玄関から外に出ると、心地よい風が敏明の体を包み、一瞬で吹き抜けていった。着ていた白いシャツが瞬間遅れて靡き始める。起きたときよりも、空は一層青みを増しているように見えた。雨どころか曇る気配すら見当たらない。いい天気だと改めて思った。
エレベータを地下一階まで降りると、そこが住人専用の駐車場である。来訪者のために数台分の余剰が用意されてあるが、もうその場所には数台止められている。スペースは余っているのだから、止められる車をもう少し増やせば便利なのに――傍を通るたびに敏明はそう思う。
「よう、相棒――埃被ってないか?」
声をかけた場所にいつもの軽自動車が止まっている。車体は淡いグリーンで、敏明の軽口とは反対にぴかぴかと今にも光りだしそうなほど磨いてあった。まあ、昨日洗車したばかりなのだから当たり前のことであるが。
エンジンをかけてからトランクを開ける。弁当たちを積み込もうとは思わないが、レジャーシートは座席に飾っておくには派手すぎる。眠らせておくのが一番だ。
敏明がしなければならない準備といえばこのくらいで、外で立ったまま運転席のドアにもたれかかった。お風呂に入っているわけじゃない、真美子もそんなに遅れはしないだろう。
「敏明さん、待ちました?」
小走りでこちらに駆け寄ってくる真美子は、確かに着替えていた。膝の辺りまである薄いベージュのスカートを履き、黒いブラウスの上に白のカーディガンを羽織っている。そして、花の刺繍がしてある白い帽子がよく似合っていた。つばが大きいのか、ちょこちょこと角度をいじっている姿が可愛らしい。
「いや、全然。それより、その帽子よく似合ってるね」
微笑みかけてから、助手席のドアを開けた。敏明からは見えなかったが、急に帽子を深く被った真美子の頬が赤く染まっている。
「敏明さん、お世辞お上手ですね?」
かすかではあるが、その声色は尖っているようだった。
「ふたつ上の姉に鍛えられてね、すっかり口が上手くなっちゃってるんだ」
「じゃあ、やっぱりお世辞だったんですね」
真美子は俯いて拗ねた。敏明は無様に慌てる。
「そんなことないってば、その帽子は本当によく似合ってるよ」
「はいはい、わかってます。早く行きましょうか、敏明さんの言い訳を聞いてたら、日が暮れちゃいます」
真美子は帽子を脱いで、胸に抱え込んだ。お弁当が入った鞄も一緒に持っている。
「日が暮れちゃうって、それに本当にお世辞じゃなくて――」
ぶつぶつ文句を言いながら、敏明はアクセルを踏んだ。それに応えて、車が動き出す。開け放たれた窓から流れ込んでくる風が、ふたりの髪を弄んでは去っていく。どんなに髪が崩れてしまおうと、窓を閉めてしまう方がよっぽど重い罪のように思えた。もっと風を感じようと、更にアクセルを踏み込んだ。
こんなに気分よく車を走らせるのはいつ以来だろうか。どんな結末を迎えるにせよ、今こうやって言葉を交し合っているのはかなり楽しい。隣を盗み見ると彼女も笑っている。今までの自分たちが嘘のようで、どんなことが起こったとしてもどうにかなってしまうような気分になれた。まだ答えは出ていないけれど、この先どうなろうと自分の答えは間違っていたと後悔することだけはないような気がした。
6
目的地に辿り着こうとしているときには、もう昼前になっていた。途中にドライブスルーなどで休憩を挟んだけれど、それでも二時間近いロングドライブである。
今、車は見晴らしのいい平野を走っていた。田圃や畑がところどころにあり、それ以外の場所には草原が広がっている。燦々と輝く太陽の光が草花たちに降り注ぎ、その眩しい反射には思わず目を細めてしまいそうになる。
「いいところですね、ここ。もうすぐ着くんですか?」
助手席の窓から身を乗り出し、真美子は胸一杯に辺りの香りを吸い込んだ。力強い土の匂いの後ろに隠れている健気な草花の香りが、とても清々しい。ただそれだけで、真美子はこの土地が好きになった。
「そうだろ、ぼくも一回来ただけだけど、一片で好きになったんだ。目的地は、……ほら! 見えてきたよ」
緩やかなカーブを抜けると、ぽつんと立っていた雑木林の向こう側に牧場のような建物たちが見えた。それらを囲むように柵もあるが、あまりにも敷地が広すぎるのか、どこまでが境界なのかはっきりしたことはわからない。
「そろそろ種明かししてくれてもいいんじゃないですか? 牧場みたいですけど、なにをするところなんですか?」
風で飛ばされないように帽子を右手で押さえながら、真美子は言った。
「そうだねー、そろそろいいかもね。あそこはね、大まかに言えば二つのセクションがある牧場なんだ。半分は小さな動物たちと触れ合える動物園みたいになってて、残りの半分は本当に牧場で、牛の乳を絞ったり乗馬もできたりする。前来たときはアイスクリームを食べたんだけど、……美味かったなぁ」
夢見るような敏明の言い方に、つい羨ましくなってしまう。とれたばかりの牛乳をアイスクリームにして美味しくないはずがなかった。心ならず、口の中が唾液で満たされる。
「小さな動物ってなにがいるんです?」
「犬や猫じゃないかなぁ、多分。もしかしたら、兎なんかもいるかも」
「犬ですか!? 小さいワンちゃんがいるんですか!」
真美子の声は自然と大きなものになっていた。思わず頬が緩んでしまうのを抑えきれない。ただでさえ高揚している気分が、際限なく登っていく。というよりも、地団駄を踏んでしまいそうなほど、体が空回りを始めている。真美子の子犬への想いが、その力の源である
「そりゃ、いるさ。犬だったら、小さいのだけじゃなくて大きいのもいるんじゃないかなぁ」
敏明の声には、驚きと苦笑が織り込まれていた。しかし、真美子はそんな些細なことに気付かぬほど、子犬に夢中だ。
「抱いたり、撫でたりできますよね、もちろん」
返答を期待しての言葉ではなかった。会話を成立させるというよりも溢れ出した感情が綴らせたようなものだった。両手に子犬のふんわりとした毛の感触が甦ってくる。実物はこれよりももっと素敵に違いない。
「犬や猫よりも、ぼくはお昼のお弁当が気になるけどね」
敏明は苦笑に近い笑みをこぼす。予想以上の歓迎ぶりに拍子抜けしたのかもしれない。
「お昼食べたら、ワンちゃん触りに行きましょうね? 絶対ですよ」
モスグリーン色をした車は、ゆっくりとではあるが牧場へと近づいてゆく。遠くで見ていたよりもかなり敷地は広そうだった。これだけの面積があれば、どれだけの牛や馬が飼えるのだろうか。
「大丈夫だよ、真美子さん。犬は勝手に逃げないから。その後は、牧場自慢のソフトクリームを食べようね」
「ソフトクリームもいいですけど、お弁当もちゃんと食べてください。残したら、許しませんから」
真美子は運転手に向かって意地悪く微笑んだ。
『Welcome』と書かれたアーチをくぐって、車は牧場の敷地内へと入っていく。休日ということもあって訪れる客も多いのか、広い駐車場の殆どが埋まっている。中でも家族連れが多く、両親と手をつないでいる子供たちの姿がちらほらと見受けられた。
「早くご飯を食べちゃいましょう、ワンちゃんが私を待ってます」
車が完全に止まるまでの時間すらもどかしくて、真美子はバックをしている途中で車を降りた。両手でランチボックスの入ったバッグを持っている。
「危ないってば! そんなに急いでも、犬は逃げないってば。もうちょっと落ち着いて。急いで食べたら、美味しいものも美味しくなくなっちゃう」
エンジンを止めてからゆっくりと敏明は車を降りた。後部座席からレジャーシートを引きずり出した。
「でも、でも……」
敏明の言うこともわかるが、真美子のうきうきした気分に歯止めをかけるまではいかない。シートを脇に挟んだ敏明を置いていくかのスピードで、真美子は駆けていく。青い空からは、雲に邪魔されることなく絶え間ない日差しが降り注いでいた。今の自分は、この太陽に負けないくらい刺激的だ、と真美子は思う。
高揚した気分。
それに負けない、
羽のように軽い身体。
自分が夫に惹かれ始めていることを、真美子は無意識に悟っている。
●
楽しい時間というものはすぐに過ぎ去ってしまうものである。あれだけ高く上がっていた太陽も、もう山の向こうに沈もうとしている。天では緋と蒼がせめぎあい、地や人はもう紅に染め上げられていた。
敏明と真美子は牧場でも奥まった場所――一際高い丘のようなところにふたりきりで立っている。長く尾を引いた影が唯一草原を黒く覆っていた。
先ほどまでは馬も牛もいたのだが、もう従業員が厩舎へと連れて行ってしまった。眼下に広がる草原には、もう胡麻粒のような影が数頭しか残っていない。
「今日は楽しかった?」
敏明は空を見上げながら訊ねた。数瞬までせめぎあっていた天は、緋ではなく蒼に染まり始めている。が、昼間のような明るい青ではなく、深く暗い闇を孕んだ蒼である。夜がゆっくりと忍び寄って来ていた。
「はい――」
真美子は満面の笑みで答えた。
なにか大切なことでも思い出しているのか、手を胸の辺りまで持ち上げると、何度もグーパーさせている。その仕草はとても柔らかで、指の先まで慈愛に満ち満ちていた。
「――はぁ〜、どうして小さいワンちゃんってあんなに可愛いんでしょうか。世界七大不思議のひとつとして数えてもいいくらいです」
きらきらと瞳を輝かせて語る真美子に、敏明は思わず吹き出しそうになって掌で口を覆った。あまりにも幼い仕草に笑みがこぼれてしまう。声が漏れて馬鹿にしたと思われることこそ馬鹿らしい。微笑ましく、守ってあげたいと思うくらいなのに。
そのとき、敏明ははたと気がついた。
――この娘は、まだ二二だったっけ。俺より、五つも下なんだ。
幼いとまではいえないが、事実若いのだった。彼女を大人びて見えるようにしたのは、あのことに違いない。少し哀しくなった。
だから――名目上だけの夫とはいえ、彼女のことを護って当たり前なのだと今更のように思った。そう考えると、隣に立っている彼女の体が急に頼りないものに見え始める。極めて都合のよい頭だと思いながらも、こういう変化なら構わないだろうとも思った。
「――敏明さんはどう思いますか?」
「え? なんのこと?」
「だから、ワンちゃんのことです」
どうやら物思いに耽りすぎて、完全に呆けてしまっていたらしい。話を聞いていなかったのが気に入らないのだろう、真美子はぷっくりと頬を膨らませている。拗ねられている――そんなことがとても新鮮だった。思わず苦笑する。
「なんで笑ってるんですか!? そんなに可笑しなこと言いましたか、私?」
更に怒らせてしまった。笑いながらも、なんとかなだめようとする。
「真美子さんが悪いんじゃないんだ。ちょっとね……」
「ちょっと、なんなんですか?」
上手くない言い訳に詰め寄られて、敏明はただ慌てる。
「たいしたことじゃないから、気にしないでくれると有難いんだけど……」
「敏明さんにとってはたいしたことじゃないかもしれませんけど、私にとっては大事なことかもしれません。言ってくれなかったら、酷いです。嫌です」
「嫌ですって言っても……ぷっ」
頬を膨らせたままの真美子と見つめあったままだったのに、敏明はまた吹き出してしまった。笑おうとしないようにすれば余計に笑ってしまう。悪循環だった。
しかし――そんな敏明の心情を汲み取ってくれるわけもない。まあ、汲み取られていたとしても許してはくれないだろうが。
「また笑いました! どうしてですか? もしかして、私の顔が変なんですか? 酷いです」
憤りを通り越してしまえば悲しみも湧いてくる。真美子の莢のような瞳にわずか涙が浮かんできているのを見て、敏明は焦りに焦った。
「か、顔を見て笑ったわけじゃないんだ。あの、その、怒らないで聞いてくれると嬉しいんだけど」
「話によります」
真美子はつんとそっぽを向いた。
「そう言われると話し辛いんだけど、まあ聞いてよ。……ぼくが話し聞いてなかったとき、真美子さん拗ねただろ。そんなところ初めて見たから、思わず笑っちゃったんだ。だから、怒らないでくれると嬉しいんだけど……?」
急に押し黙ってしまった真美子の顔を覗き込む。頬が夕焼けの色よりも赤く染まっていた。耳まで真っ赤である。
「そんなこと言わないでください。……恥ずかしいです」
「言わないでくれって言われても、もう言っちゃったし。貶してるわけじゃないから、気にしないで……ね?」
「気にしないなんて無理です。ああ、もう見ないでください!」
覗き込まれていることにようやく気づいたのか、真美子は敏明に背中を向けた。なだめようとは思うのだが、唖然としてしまいどうにもできない。予期もしなかった沈黙がふたりの間に訪れた。
けれど、堅苦しいものではない。沈黙は柔らかで、絹のような優しさで満たされていた。自然と笑みがこぼれた。その気持ちが伝わるように、真美子の肩に手を置いた。
「子犬の話だったっけ? 真美子さんほどじゃないけど、ぼくも好きだな。今住んでるマンションじゃ飼えないのが残念だね」
「敏明さんがもっと出世するまで我慢します――」
体ごと真美子が振り返った。気持ちが伝わったのかもしれない。彼女は満面の笑みだった。
「――一軒家に住めるようになったら、ワンちゃんも沢山飼えますよね」
「犬が沢山飼える家ねえ……遠い夢だなぁ」
敏明はぼんやりとつぶやいた。
つぶやいてみると、それは言葉以上に遠いもののように思えた。家を買うというのなら、子供もいることだろう。なら結婚は続いているということに違いない。ペットに子供、そして庭付きの家にふたりがいる。それは奇跡といってもよい光景かもしれない。
「がんばれば大丈夫ですよ。……多分」
「首傾げて言われても、困るなぁ」
貴文に負けない可愛らしさで首を傾ける真美子に、敏明は声を上げて笑った。こんな姿が見えていなかったのも自分であり、見せなくさせていたのも自分なのだった。そんな自分を嗤った。
――こんなことはもう終わりにしよう。
「真美子さん、――話があるんだ」
「なんですか?」
真美子の顔が強張った。恐怖に似た感情が体全体へと伝導しているのだろうか、彼女はかすかに慄いている。抱きしめてあげたくなる。が、それはできなかった。ここまできて立ち止まり続けることの方が、罪が重い。
「まだと言えばいいのか、もうと言えばいいのかわからないけど、結婚して三ヶ月になるね。世間一般の常識に照らし合わせなくても、ぼくは決していい夫じゃなかった。いや、よくないというのは調子がいいな、悪い夫だったね」
「……敏明さん」
真美子が自分の名を呼んだ。それが肯定なのか、否定なのか――敏明にはわからなかった。ただ、後者であってくれればいいと、恥も外聞もなくそう思った。
「ぼくはきみと結婚するべきじゃなかった。愛してもなくて、好きですらなかったんだから。断られると思っていたのが甘かったのかもしれないなぁ、きっと。でも、それもしょうがなかったとは思うんだよ。だって、真美子さんはぼくに少しも興味がないように見えたから――」
敏明は苦笑して、更に続ける。
「――そんな困った顔をしなくてもいいんだよ、真美子さん。そう思ってたならぼくが断ればよかっただけの話しなんだから。なのに、ぼくは他のことに気をとられたり、社長の娘さんだってことに戸惑ってる内に話はもう決まっちゃってた。疲れてたぼくには、その決まったことを台無しにできるような力はなかったんだ。ぼくは怠け者だった。一言、そう一言口にすればよかったんだ。『真美子さんと結婚はできません』って。簡単なことだったのに、ぼくは怠った。きみがどんな理由でぼくと結婚しようと思ったのかは知らない。考えてみたけど、わからなかったよ――」
真美子は俯いている。かすかに体が震えているのが見て取れた。悲しんでいるのか、笑っているのかすらもわからない。でも、それでいい気もした。
「――だから、ぼくたちは離婚した方がいいのかもしれない。会社をクビになるかもしれないけど、このままきみを傷つけ続けるのは耐えられないんだ。これぐらいは男の責任ってことにしてほしいな。そうじゃなきゃ、ぼくの立つ瀬がないよ」
このままじゃ情けなさすぎる、と言って敏明は微笑む。太陽は山の向こうに沈み、柔らかで無機質な月の光がふたりを照らし出していた。
●
カーディガンの裾を固く握っていた手が、虚空をさまよっていた。なにを掴もうとしているのかは、真美子にもよくわからない。ただ、このまま黙っていれば、今立っているこの位置以上に、ふたりが離れてしまうことはわかっていた。
しかし、声が出ない。代わりに、瞳がかすかにうるんだ。
「でも――!」
敏明の大きな声が真美子の体を強く打った。その叫びには、今まで溜めに溜め込んだなにかが一杯に詰まっているようだった。
ふたりの視線が交錯する。火花が散るような峻厳なものではなかった。敏明はまだ笑っている。その弛んだ瞳に引き込まれそうになった。その深さに自分の気持ちが吸い込まれて、なんだかわかってもらえたような気がした。さまよっていた手が再びきつく引き結ばれた。
「これはぼくの我侭かもしれないけど、真美子さん――きみとこの結婚生活を続けてみたいんだ」
囁くような声だったけれど、その声は今の叫びよりも強く真美子に響いた。体が震える。それはただ驚きのためか、それとも喜びなのか。答えは――だけが知っている。
「ぼくたちは意外と馬が合うと思うんだ。ふたりとも犬が好きだし、真美子さんが馬に乗るようなときは手も貸してあげられる。嫌いなものはほとんどないし、作ってもらったご飯は残さず食べられる自信もあるよ。今日のお弁当も残さなかっただろ」
「ソフトクリームも一緒に食べました」
「そうだったね。あれ、美味しかっただろ?」
真美子はうなずいた。
「別れてしまっても構わない。いや、構わなくはないんだけど――」
敏明は頭を掻く。表情はかすかに苦笑。
「――このままでいてもしょうがないから……。車のダッシュボードにサインが済ませてある離婚届が入ってる。帰り道に提出したら、ぼくらはもう他人だ」
真美子は離婚届の重さを思った。あんな重いものを自分ひとりで持てるだろうか。
「もし、続けてくれるっていうなら嬉しい。ぼくたちはお互いのことを――ほとんどって言ってもいいくらい――なにも知らないけど、そんなことは大した問題じゃないから。これから知っていけばいいんだ。それに、世界で一組くらい結婚してから恋愛を始める夫婦がいても……いいんじゃないかな。もう結婚しちゃってるけど、恋人から始めよう」
真美子に向けて、敏明の右手が差し出された。思わず、彼女はその手を注視する。
「続けてもいいんなら、手をとって欲しい。駄目なら、殴ってくれても構わない。いつまでも待つから、ゆっくり考えて決めてくれないか」
敏明の真摯な声に、真美子はゆっくりとうなずいた。一度深い呼吸をしてから、敏明は目を瞑った。その姿を見届けた後、顔を伏せて彼女も同じようにまぶたを閉じた。
暗い視界の中、二度とは交わらない道が広がっているように思えた。どちらを選ぶにせよ、時間が一方通行なものである以上、同じ問いが二度繰り返されることはないだろう。今――この時はすぐに逃げ去ってしまう。けれど、今回は選ぶことができる。辛いかもしれないが、選べないよりもいいに決まってる。
だからこそ、どうしようかと思う。なにも考えないで彼の胸に飛び込めれば幸せかもしれないけれど、そうはさせない疼きが胸に巣食っている。思いや考えは千々に乱れ、自分が真っ二つに割れそうだ。
ちょうどいい機会だとも思う。愛してるわけでもない。なにより、もう傷つきたくない。斬りつけられたような胸の痛みはまだ私の中でくすぶっていて、今みたいなときには「忘れるな」と動き出す。だから、忘れることはできない代わりに、忘れたみたいに生きようと――独りで生きていこうと思ったのは確かだから。
――でも、それは本当にそうだったのだろうか。逃げたかっただけじゃないのか。
真美子は俯かせていた顔を上げた。眼を瞑ったまま、敏明は辛抱強く待っている。そのまま眺めていると、差し出されている右手が震えているように見えた。その真剣な姿が可笑しいはずはないのだけれど、真美子は知らずくすりと笑みを漏らしてしまった。自分だけが怖いんじゃないんだ、と安堵する。
愛してるわけじゃないけれど、愛せるような予感は確かにしていて、緊張に身を震わせながらも待っていてくれる夫の姿は、なによりも信じられるような気がした。予感なんて夢と一緒で儚いけれど、そう思わせてくれることがなによりも重要だから。寂しく暮らしていくことが目標なんていうのは嘘で、愛し愛された方が幸せに決まってる。踏み出すことへの恐れがそのことを認めさせなかっただけの話だ。
だから――真美子はそっと両手で敏明の右手を包み込んだ
「ま、真美子さん!?」
いきなり大きく体を震わせた敏明は、自分の右手を見下ろした。眼が大きく見開かれている。まさに、吃驚仰天といった様である。
「どうかしました?」
夫の様子に声を立てて笑い、真美子はできるだけ嫣然と微笑んだ。あまりにも慌てているので、ついからかいたくなる。
「べ、別にどうかしたわけじゃないけど…………」
「殴られたほうが良かったですか?」
真美子は笑みを深くした。
「そんなことはないよ!」
「ご、ごめんなさい」
無神経だったかと恥ずかしくなり、思った以上に敏明が真剣なのが嬉しくて真美子は少し照れながら謝った。彼女にしかわからない惚気である。
「謝られても困るんだけど――」
敏明は頬を指でかく。
「――怒ってるわけじゃないんだよ。わかるかな? 嬉しいんだ。許してもらえるなんて思ってなかったから」
「許して……ですか?」
許すようなことがあっただろうか。許してもらうのは、自分のほうなのに。
真美子は自然と首を傾げていた。
「程度は真美子さんにしかわからないだろうけど、ぼくはあなたを傷つけたに違いないから、手を掴んでもらえて――許してもらえて嬉しかった。ありがとう」
敏明は頭を下げた。そんな夫が微笑ましくて、なによりも有り難くて、必死に押さえ込んでいた感情がそっと溢れ出し、真美子は右の瞳から一筋涙をこぼした。
「敏明さんは、自分ひとりが悪者みたいに言いましたけど、そんなことありません。あなたが悪い夫だというのなら、私も悪い妻でした。敏明さんはそう思わないかもしれませんけど、自分のことは自分が一番よく知ってます。許してもらわなければならないのは、本当は私なんです」
真美子は自分の考えていたことをゆっくりと語った。結婚生活を長く続けるつもりはなかったこと、敏明を利用しようとしていたこと、独りで生きていこうとしたことなど。
話しながら、どれだけ酷いことをしようとしていたのか改めて思い知らされ、真美子の頬は自然と青褪めていた。口を閉ざしたかった。嫌われたくなかった。もう捨てられたくなかった。しかし、言わなければならないこともわかっていた。
夫婦として新しく出発するために、自分も許してもらいたかった。
「へぇー、そんな理由だったんだ。考えてもわかるはずないはずだ」
真美子と顔を合わせたまま、敏明は微笑んだ。なぞなぞの答えを教えてもらった子供のように、その表情には微塵の含みもなかった。
「怒らないんですか!?」
想像していなかった反応への驚きを、真美子は瞳を使って表した。
「怒るわけないよ、そんな考えは流石に思いつかなかったけど、よく考えれば真っ当な気もする。でも、独りで生きていくというのには、賛成できないなぁ。真美子さんはまだ若いんだから、俺みたいな奴を捨てても、充分新しい恋人を見つけられるよ」
あっけらかんと語る夫に、真美子は対する言葉が見つけられない。
「どうしてそんなに、そんなに……」
優しいんですか――と口にしようとしたが言葉にならず、真美子は嗚咽を漏らした。握り合っていた手を引かれ、敏明にそっと抱きしめられる。夫の胸に全てを預け、彼女はなにを憚ることなく声を上げて泣いた。
「もう、大丈夫?」
「いきなりごめんなさい。私も嬉しくて、泣いちゃいました」
赤い目を擦りながら、真美子は――照れていたけれど――満面の笑みで応えた。その微笑みは年相応で少し幼かったけれど、夫を慌てさせるには充分すぎるほどの魅力を湛えていた。
「じゃ、じゃあ夕食食べに行こうか。もう夕飯時だ」
顔を赤くしたまま、敏明は歩き出した。急にぎこちなくなった夫を不思議に思いながら、真美子はついていく。手はまだ握られたままで、自然と数歩遅れることになる。
「敏明さん、なにを食べるんですか?」
「バーベキューさ、鮮度がいいからすごく美味しいんだ。ビールを飲みながら食べると、堪らないんだ。これが」
肉が、ソーセージがと嬉しそうな夫へ、真美子は冷や水をかける。
「でも、運転できるの敏明さんだけだから、お酒飲めませんね」
「え!?」
敏明は駆け足気味だった足取りが一瞬で落ち込んだ。表情も一転して暗くなる。
「だって、私免許持ってないですから」
「真美子さん、車の免許持ってないの!?」
「はい、だから残念ですね。代わりに、私が精一杯楽しんであげます」
「それはないでしょ、真美子さん」
「知りません、そんなこと」
「真美子さん! 真美子さんってば、話聞いてよ」
縋りついてくる敏明を軽くあしらいながら、真美子はさっきまで立っていた場所を振り返った。
太陽はもう完全に沈んでしまっていて、正確な場所はわからなかったけれど、あそこで思い悩んだことをこれから先――忘れることはないだろう。五年後、十年後――どれだけ苦しんだとしても、夫の手を包み込み涙したときの気持ちさえ忘れなければ、どんなことでも乗り越えられるような気がする。そう、どんなことでも。
私たちはまだはじめの一歩を踏み出そうとしているところだけれど、あそこでの約束が本当のはじめの一歩だった。
はじめの一歩のためのはじめの一歩を、私たちはあそこで踏み出したんだ。忘れない、絶対に忘れない。
正面に向き直った真美子は、勢いよく敏明を追い抜いた。今までとは反対に夫を引っ張って、駆けて丘を下っていく。肩越しに振り返ると、敏明はまだ絶望的な顔をしていた。大きな声で笑い、真美子は謝った。
「敏明さん、ごめんなさい。実は私――免許持ってるんです」
「ええ!? 本当ですか? 酷いなぁ、嘘なんかついて」
一瞬で顔が色を取り戻す。
「ふぅ〜ん、そんなこと言うんですか? ビール飲んじゃおうかしら」
「嘘です、嘘です。真美子さんは天使のように優しい方です」
ぺこぺこと頭を下げる敏明がおもしろくて、真美子は大きな声で笑った。
その上、自分は生粋のペーパードライバーで免許を取ってから一度も車を運転していないことを告げた時、酔った夫がどんな顔をするだろうかと想像して、彼女は更に大きな声で笑った。
夫婦の傾向と対策 初級編
<了>
脱稿 2005/09/02 22:19:28
改稿 2005/09/09 21:13:57
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清き一票を!!
後書き
さて、何ヶ月ぶりに後書きなんていうものを書くのでしょうか考えたくありません。今は「後書き」という甘美な響きによっていたい気分です。
この話は、ここで一応終わりとなり一区切りつけたのですが、続けることを視野に入れていたりします。人気がなければそれまでですが、なにか反応があれば上級編まで書き続けたいと思っています。おぼろげながら概要も考えています。
私にとってみれば初めての一次作品ということもあり、拙く気合が空回りしている場面もあると思いますが、楽しんでいただけたのなら幸いです(後書きから先に読む人もいないでしょう)。
オリジナルの作品で言うとしたら、この後には「地獄坂ライディング」というお話を書こうと思っています。よければそちらもお楽しみに。では、またできるだけ早い再会を著者も祈っております。
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