抜け駆け
1
「ほら、士郎! なにぼけっとしてるのよ」
「ああ、すまん」
ぼんやりしていた俺は、前を歩く遠坂に怒鳴られてあわてて返事をした。
頭上にはぬける様な青空が広がり、道端では春の息吹が聞こえ始めている。ロンドンは本格的に春を迎えようとしていた。
日中は長袖のシャツに薄いジャケットを羽織れば気持ちよく過ごせるこの季節。あたりを見渡せば、若いカップルや仲のよさそうな老夫婦の姿が見える。
こうやって歩くのには申し分ない。
けれど……。
「俺、なんでこんなところにいるんだろ」
「もう! 早く来ないとおいてくわよ」
三メートル先で、振り向いて頬を膨らませている遠坂がいる。五年前にはありえなかったこの光景に不思議な感慨をおぼえつつも、俺は首を捻らざるを得なかった。
そして、彼女のあとただ付いていく。
●
――時間は若干遡る。
「いらっしゃい、士郎」
「……お、お邪魔させてもらうぞ、遠坂」
魔術の件で、住居兼工房となっている遠坂の家を訪ねた俺は、玄関を開けた途端吹き付けてきた瘴気に思わず仰け反っていた。目の前には「赤いあくま」こと遠坂凛が立っている。どうやら、瘴気を家中に振り撒いている原因は彼女らしい。
「どうしたの? 入らないつもり」
「いや、喜んで入らせてもらうぞ」
黒いオーラを背負っている遠坂に睨みつけられて、俺は顔を引き攣らせながらも玄関へと足を踏み入れた。意識をしていない内に数歩あとずさっていた様だ。恐るべし、遠坂凛。
「いらっしゃい、ちょっと居心地悪いかもしれないけど気にしないで」
遠坂の言葉に反して、家の中は半端じゃないほど淀んでいた。もしかしたら、竜神池でくらった絶望よりも、……いやいや俺はちゃんと歩けてるだろうが、そこまで凄くはないはずだ。
――多分。
「ねえ? 士郎」
「――!! なんだ、遠坂」
いきなり声をかけられて、俺は思いっきり跳び上がった。そんな俺の小動物みたいな行動に、遠坂は額を険しくし訝しげだ。
「なにをそんなに驚いてるのよ!?」
「床に親父の顔が見えたんだ。疲れてるからほっといてくれ」
うわぁ、なんだそれ!? 自分でいっておきながら、意味がわからないぞ。落ち着け、落ち着くんだ、衛宮士郎。遠坂が勝手に怒ってるだけで、おまえが怒られてるわけじゃないんだぞ。
「ふ〜ん」
「え、それだけか!?」
「なによ、じゃあそれ以外に理由あるの?」
「いや、ないけどな」
正直、肩を空かされた。俺はてっきりいつもの怖い笑みを浮かべられて、「衛宮くん」と背中が寒くなる声をかけられるんだと思っていたのに。いつもと明らかに違う彼女の反応に、いまさらながら遠坂のことが心配になってきた。
遠坂のあとをついてリビングに入ると、俺はいつもの様にキッチンに向かった。ルヴィアから講義を受ける場合は紅茶を持参していくのだが、遠坂の家の場合はそうもいかない。それならば、淹れて飲まなければいいだけの話だ。なのに、それを俺の我侭な師匠は許してくれなかった。どういう理由かはしらないが、ルヴィアには用意して遠坂に用意しないのは不公平にあたるらしい。
いまいち納得できない理由だったけれど、怒っているよりは怒っていない方がこちらとしても嬉しいわけで、……まあ、こうやって用意しているわけだ。
さぁ、準備も出来たことだし、不機嫌姫と一緒にお茶でも飲むことにしよう。
「ありがとうね、士郎」
「あれ、珍しいな。遠坂が礼をいうなんて」
トレイで二人分の紅茶と砂糖瓶を運びながらリビングに戻ると、遠坂はさっきまでと少し違い、やや憔悴しているような面持ちで俺を迎えた。彼女の前に紅茶を差し出しながら、心の中で首を捻る。
こりゃ、本格的にまずい気配だ。友人としては励まさずにはいられない。
「砂糖は二つでよかったよな?」
「うん、ありがと」
角砂糖を二つ入れてやると、遠坂は軽く微笑んだ。
「き、気にするな」
彼女の淡い微笑みに焦ったのか、俺の声はどもっていた。もう遠坂と知り合って九年にもなろうとしているが、彼女に女を意識せずにはいられない時がある。こういう場合、なにをいえばいいのだろうか。――口が動くことはない。
「……なあ、遠坂? 最近、なにかあったのか」
「……もしかして、衛宮君聞いてないの?」
俺の言葉が意外だったのか、遠坂は目を丸くして俺を見つめた。
「誰にだよ」
「あなたの雇い主に」
質問を質問で返されて、俺が首を傾げていた。心あたりはあってないような感じだ。
彼女たちと生活の一部を共有するようになって数ヶ月経つが、二人は顔をあわせれば喧嘩をしているような気がする。仲よくしていることも多いのだけれど、目の前の相手を食わんばかりの迫力で言い争っている時の方が印象が強い。
…………そういえば、昨日はルヴィアの機嫌がやたらよかったような気がする。俺がミスをしても微笑んでやんわり叱るだけだったし、いつもと同じ紅茶の味を絶賛していた。
おかしいことには気付いていたけど、害がないから放っておいたのがこういう形でしっぺ返しされるなんて。
「また喧嘩したのか、二人は」
「なによ、そんな呆れたような顔して」
「ような、じゃなくて。呆れてるんだよ」
こちらを上目遣いで睨む遠坂に、俺はこれみよがしに溜息をついてやった。いつもやられてるんだから、これぐらいはやってもいいだろう。頬を膨らませている遠坂は、可愛らしいだけで怖くなかった。
「…………士郎」
「ん? なんだよ」
たっぷり沈黙したあと、なぜか遠坂は嬉しそうに微笑んだ。ぞくりと背中を冷たいものが奔る。
「出かけるから、準備しなさい」
「はぁ? おいおい、俺への講義はどうするんだよ。これだって、ルヴィアに特別の許可をもらってきてるんだぞ。それを外で遊んでましたなんていうのがばれたら、…………すごいことになるぞ」
俺の心配をよそに、遠坂はもう立ち上がっていた。そして、まるで悪戯を思いついた少女の様に嬉しそうに微笑んだまま、寝室へと消えていこうとしている。どうせすごいことになるのは俺だけなんだけど、許容できるはずもない。
「待てよ! 待てったら!!」
慌てて遠坂を追ったが、扉が閉められてしまいあやうく顔をぶつけるところだった。そのことから察せることは、もう彼女の中で外出することは決定事項だということだ。
「遠坂!」
彼女の名前を呼びながら、俺は窓の外を見た。
空には薄く雲がかかっているだけで、太陽が世界に
燦々と降り注いでいる。小鳥たちは空という海を踊りまわり、歓喜の囀りを上げていた。
むむむ、これは遠坂でなくても外に出たくなる陽気だ。かくいう俺もこの家までの道のりを楽しんでいたくちなので、落ち込んでいる彼女に
NO
という返事をできる立場にはない。
今着替えている遠坂を呼ぶ声が徐々に小さくなってきている俺を誰が責められるだろうか。誰も責められない筈だ。……いや、一人だけいるな。もう一人の師匠であるルヴィアは、きっと怒髪天をささんばかりに怒るだろう。彼女の怒りを想像して身体を震わせる。
しかし、俺にはもう遠坂を止めようとする気持ちはなくなっていた。彼女の笑顔を考えるだけで、心臓が縮み上がるであろう叱咤にも耐えようとしている自分がいる。これは遠坂の立場がルヴィアとなっていたとしても同じだろう。
甘いんだろうな、俺って。
心の中でつぶやくと、俺はドアノブから手を放しテーブルへと戻った。遠坂の言いつけ通り出かける準備をする。といっても、彼女のように身嗜みを整える必要もなく、準備をした紅茶の片づけをするだけだ。
場を引っ掻き回して勝手に去っていった遠坂のカップは、なんだかんだで空だった。こういうのを見るとちょっと顔がにやけてしまう。紅茶の
芳(しい香りは、落ち込んでいた彼女の助けに少しぐらいは役立っただろうか。
「士郎、お待たせ!」
遠坂が着替えてリビングに現れたのは、ちょうどカップやポットを洗い終わった頃だった。
「外に出かけるのは構わないんだが、どこに出かけるっていうんだ? 買いものの荷物持ちなんてやだからな」
「あれ? どうしてそんなにものわかりがいいわけ。頭でも打った?」
「お前、真面目に失礼だな」
口を尖らせて首を傾げる遠坂に、俺は呆れ返ってしまいそれ以上なにもいえなかった。
「はははは、ごめんごめん。着替えてる時も士郎をどうやって連れ出すかばっかり考えてたから、驚いちゃったの。……それじゃあ、出かけますか」
誤魔化すように愛想笑いをした遠坂は、口をぽかりと開けている俺の脇をすり抜けてさっさとリビングから出ていこうとする。そんな彼女の背中に、俺はもう一度声をかけた。
「遠坂、だからどこにいこうっていうんだよ。本当に遊びにいくだけなんだったらそういってくれ」
俺の声はちゃんと届いたのか、遠坂は歩みを止めるとその場でくるりと振り返った。さっき見たちょっと作ったような笑顔ではなくて、本当に楽しそうな笑みが顔には形作られている。
「秘密にしておきたかったけど、……ヒントぐらいはあげるわ。遊びというのも半分あるけれど、ちゃんと半分は士郎の講義のために出かけるのよ。まあ、課外授業だと思ってくれればいいわ」
澄ましていう遠坂だったが、気分の高揚は隠せないらしく口元が微妙にひくついている。師匠としての威厳を保つつもりなのだろうか、笑ってしまえばいいのに。
「課外授業? 一体なにをするんだ?」
「それは秘密。ついてきさえすればわかるわよ。士郎にとっては楽園かもしれないわね」
「はぁ? 楽園だって」
わけがわからない。混乱する頭を携えて、俺は入ってきた時と同じ様に遠坂のあとをついていった。
玄関を開けると春の風。
空を舞い踊るシルフィは、俺の行方を知っているだろうか。
●
で、俺は今もこうやって引っ張り回されているわけだ。
遠坂の家から出発して、もう一時間は経つだろう。殺風景な冬とは違い、草花の芽吹きが始まっているこの街を歩くことに退屈しているわけじゃない。ただ、……この先になにが待ち受けているかを考えると、足の運びが鈍いだけの話だ。
「士郎はロンドンの春は初めてよね?」
「ああ、ヨーロッパは転々としてたけど、この国にくるのは初めてだな」
顔だけ横に向けて俺は答えた。もう天下の往来で怒鳴られるのは嫌だったので、俺は遠坂と隣り合って歩いていた。
こうして外に出ると再認識させられることがある。それは遠坂が紛れもない美女だということだ。
そのことを顕著に表しているのは、すれ違ったあとの男たちの顔だった。恋人を連れている奴も時々惚けて振り返るぐらいなのだから、独り身の男の心理なんて算数よりも簡単に理解できるだろう。
それは別に構わないんだが、彼女ではなく俺を睨むのは勘弁して欲しい。確かにこんな美女を連れている男を睨む気持ちはわからないでもない。しかし、俺は付いていってるだけなので、お門違いだと思う。
すれ違った男に睨まれながら考える。
魔術の師匠としての遠坂、友人としての遠坂。俺にとってはそれだけで充分なはずなのに、時折答えのない疑問が頭をもたげることがある。その疑問には、――まだまだ答えられそうにない。
「ねえ、どうして今まで訪ねてこなかったの?」
「え?」
はっと現実に引き戻されて、隣の遠坂の顔を覗くと、――なぜか拗ねていた。
はぁ、なんでだ? ロンドンの気候の話をするんじゃなかったのか?
「どうしてよ、士郎」
俺が黙っているのが気に食わないのか、彼女はさらに口を鋭く尖らせた。
啄木鳥(みたいだとはもちろん茶化せない。
「理由か、……さあ、自分でもよくわからない。ただ、聖杯戦争を一緒にくぐり抜けた遠坂に、強くなった自分を見せたかったのかもしれない。五年もかかったけどな」
なにも考えない内に、俺は自然と喋りだしていた。そんなことを考えたことはない。けれど、口は勝手に動いている。本当に不思議な現象だ。
「時間がかかりすぎなのよ、衛宮くんは」
拗ねながらも嬉しがっているような声に、頬を掻きながら横を向くと、遠坂は赤面していた。
さて、どうしてだ?
「しょうがないだろ、要領が悪いんだから」
そっぽを向くと、なぜかこっちまで恥ずかしい。照れ隠しに後頭部を掻き毟る。
「そうだったわね、まあ、これからはいい師匠がいるんだから安心しなさい」
「…………ああ」
赤面しながら微笑む遠坂の顔が予想防護壁を超える可憐さを醸し出していて、俺は惚けることしかできなかった。
まずい、なんだかわからんが、このままではまずいぞ。
「それじゃ、そろそろ目的地に着くわよ」
「……そうか」
遠坂の言葉にも生返事で、俺は必死に思考回路を再起動していた。
足をふらつかせながら歩いていると、ようやく景色を見れる余裕が生まれてきた。あたりはいつの間にか林になっていた。
「どこなんだ、ここ?」
鬱蒼とまではいわないが、それなりに木々が生え揃っている。近くに民家は見あたらない。と、思っていたら、こじんまりとしたコンクリートの建物が見えてきた。こんなところにこんなものを建てた人間はなにをしたかったのだろうか。利点はなにもないだろう。交通の便はすこぶる悪いし、なんか野犬が出てきそうで非常に物騒だ。俺だったらまかり間違ってもこんなところに住みたいとは思わない。
だから俺は通り過ぎようとしたのだが、なぜか遠坂に服の裾を握られた。
「はい、ここよ。ここが今日の講義をする場所」
「なんかいけないものでも憑いてるのか?」
そう考えれば納得がいく建物だ。きっと持ち主も処分に困っているに違いない。それの処理を遠坂が頼まれたわけだ。きっと、俺に手伝わせるつもりなのだろう。貧乏な彼女だけに、バイト料が入るか心配だが授業だと思えばいい。
「憑いてるわけないでしょ! 士郎、ここをどこだって思ってるの?」
「壊すに壊せないコンクリート建築物」
俺は正直に答えた。
「があー!! ここは
時計塔
。魔術協会の本部よ!!」
「ええ!!」
遠坂の叫びに、俺は口を大きく開けて目の前のぼろい建物を見つめた。
2
結論からいうと、外見はただの擬態だった。
建物の中に一歩入ればわかることなのだが、魔術師でなければわからないように地下への階段が隠されていた。もしなにも知らない一般人がここを訪れたとしても、荒廃した室内に怯えるだけで、地下でなにが行われているかを知る術はないだろう。
まあ、改めて考えれば当たり前の話である。魔術師の総本山が、いかにも魔術師がいるという建物を建てていたなら冗談では済まなくなるに違いない。
簡単な答えだけれど、俺はそこが
時計塔
だと遠坂から教えられてなかったのだから、外見だけではわからなかったことはしょうがないといいわけしておきたい。
「士郎、なにきょろきょろしてるのよ」
「あ、え、ちょっとびっくりしてるだけだ」
遠坂に指摘されて、俺はおのぼりさんみたいにあたりを眺めていたことに気付いた。
時計塔の内装は予想していたものと違い、下手な建造物よりも明らかに近代的だった。
蝋燭(で灯りを取っているかもなんて思ったが、もちろんそんなことはなく、天井には蛍光灯が備え付けられていた。遠坂にそのことについて訊いてみようと思ったけれど、帰ってくる言葉は明らかで俺は口を噤んだ。
彼女は、
「なんで、魔術師が灯りを取るっていう目的のために蝋燭を使わなくちゃいけないのよ。火をつけて回るのも面倒だし、耐久時間も短いじゃないの。え? 魔法の光ですって!? 馬鹿士郎! そんなことに魔術を使う魔術師がいてたまるもんですか。士郎はアニメや漫画の見過ぎ。今、魔術師が蝋燭を使うのは儀式の時ぐらいよ」
というに違いない。
今、俺たちは果てが見えない一直線の廊下を並んで歩いていた。壁紙は染み一つない白で、10メートル感覚に扉が並んでいる。
遠坂の話によると、この廊下には本当に果てがないらしい。そして、いくら歩いても背中に入り口の壁を背負うように作ってある。だから、いくら進んでもすぐに帰ることができる。
それだけでも、時計塔という場所の神秘を感じられるのだが、これと対になっている廊下がもう一本あるというのには本当に驚いた。
どういう仕組みなのかは、遠坂を持ってしてもわからないらしい。彼女の推測によると、固有結界に似たシステムを採用しているに違いないとのことだ。現実を侵食するという点においてあれに似ている――。
「さあ、着いたわよ」
「ここか?」
遠坂が立ち止まったので、俺は肩越しに彼女が指差す扉を見つめた。なんの変哲もないただの扉である。廊下の反対側にある扉と同じものにしか見えない。一体どうしてこの扉だとわかるのだろうか。
「なあ、本当にここが目的地なのか? 全然他の扉と区別がつかないんだけど」
「そういえば、士郎にはわからないんだったわね。ここ――
果て無き回廊(の扉の区別は、魔術協会に所属する魔術師にしかできないの。それぞれの場所に結構危険なものが入ってるから、侵入者への目眩ましとしての措置らしいわ。
対になってる
閉ざされし回廊(にはもっとやばいものが封印してあるらしいけど、私にはまだ入れない。これからこつこつと攻略していく予定だけど、今の私にはまだ無理ね」
その説明に、俺はようやくここが魔術師たちの穴倉なのだと理解し始めていた。
「それでここはなんの部屋なんだ?」
「入ったらわかるわよ。まあ、死んだりはしないから安心しなさい」
俺が緊張しているのを感じ取ったのか、遠坂は軽く肩を叩くと先に部屋の中に入っていった。重い吐息を漏らしてから、俺も彼女のあとを追った。
部屋の中は少し埃っぽかった。あまり人が訪れていない部屋なのだろう。床には足跡が残る程度に埃が積もっていた。
しかし、そんなことはあとから思い出したことだった。部屋に足を踏み入れた俺は、目前に広がる光景に目を瞬かせた。
「遠坂、これみんな本物なのか?」
「どうかしら、士郎なら見ただけでわかるんじゃない」
遠坂の言葉に答えることも忘れて、俺はただ惚けていた。確かにここは俺の楽園だった。
「グラム、デュランダル、干将莫耶、ハルペー」
俺は目についた剣の名を順に挙げていった。相棒として親しんでいる夫婦剣から、伝承にでてくるような伝説の剣まで、この部屋には区別されることなく壁にかけられている。もし本物なら凄い貯蔵品である。
強化をするような感覚で、俺は最初に目についたグラムの設計図を頭に思い浮かべた。ゆっくりと全貌が明らかになっていく。こんなわくわくする緊張感は久しぶりだ。
果たしてこれは――。
「なんだ、遠坂これ偽物じゃないか」
「さすが、早いわね。私でももう少し時間がかかったのに」
遠坂は少しだけ悔しそうにこちらを見ていた。そんなに睨むなよ、俺はこれしかできないんだから。
「しっかし、残念だな。これは」
俺は壁に陳列してある伝承の剣たちの精巧なレプリカに、失望の溜息をつかずにはいられなかった。偽物しか作りえない俺にも本物が手に出来るのかと思っていただけにショックが大きい。
悔し紛れにポケットの中に入っていたものを強く握り締めた。痛みで張り詰めていた気が抜けて丁度いい。
「で、遠坂これからなにするんだ?」
「ん? 別になにもしないわよ。帰るだけに決まってるじゃない」
なにいってるのよ? という不思議そうな表情で俺を見つめる遠坂。マジで、それだけ?
「遠坂、もしかしてこれを俺に見せに来ただけじゃないだろうな?」
「見せに来ただけって、なにか不満でもあるのかしら?」
「いや、別に不満はないけどな。課外授業っていう位だから身構えてただけだ」
「なら、帰りましょうか。こんな埃っぽいところにいたら身体に悪いから」
そういうと、遠坂はさっさと部屋の中から出て行った。俺もそのあとに続こうとしたが、後ろ髪引かれる思いに勝てず、一度だけ振り返った。
この
偽物(たちはいつか使われることがあるのだろうか。同じ偽物同士でも、自分で動けるだけ、俺の方がマシなのかもしれない。
「待たせたな、遠坂」
扉を後ろ手に閉めると、遠坂は向かい側の廊下にもたれかかっていた。
「別に待ってなんか……って、士郎どうしたのよその手!?」
「手……?」
遠坂が目を丸くして俺の右手を見つめている。ゆっくりと手を持ち上げると、多量ではないが血が滴っていた。どうやら、切ってしまったらしい。なんだ、痛んでたのはこれか。どうやら、ポケットの中で強く握りすぎたらしい。
「もう、痛みにも鈍感なの? 手貸しなさいよ」
呆れた顔で近付いてきた彼女は鞄の中からハンカチを出すと傷口をきつめに縛った。つぅぅ、ちょっと痛いけど我慢だ。自業自得なんだから、遠坂になにをいわれるかわからん。
「士郎のポケットの中、ナイフでも入ってるの?」
「ちょ、ちょっと待て」
俺が止めるのも構わずに、遠坂は俺のポケットを漁り始めた。一つを除けば、そこには大事なものなんて入ってないのに。
「あ、これが怪しい!」
見つけたのか、遠坂は俺のポケットの中でなにかを握りこんだ。あれに間違いない。
「あ、え、これって……」
ポケットの中から手を出した遠坂が握っていたものは紅い宝石だった。少し血がついているが、宝石の魅力は少しも損なわれていない。
「こういうのを持ち歩くのは趣味じゃないんだけどな。お守り代わりに持つようにしてる。遠坂? 人の話聞いてるのか?」
俺が喋ってるというのに、遠坂はぼんやりと目を虚ろにして手中の宝石を見つめていた。血を見慣れていない人間なら貧血というのもうなずけるが、遠坂に限ってそれはないだろう。
「……士郎。どうして今もこれ持ってるの?」
やっぱり人の話を聞いてなかったみたいだ。遠坂にしては、まことに珍しい。
「お守りにだよ。手で握ったりすると落ち着くし、元の持ち主は誰か知らないけど、とっても役に立ってる。命を救われたこともある位だからな」
「そう。……役に立ってるんだ」
「大丈夫か遠坂? 雰囲気がおかしいぞ」
まだ遠坂は夢心地だ。なにが嬉しいのかわからないが、にやにやと笑っている。二人きりじゃなかったら、思わず距離を取ってしまいそうな形相だ。頬がかすかに紅潮し、妙に色っぽく見えるのは勘弁して欲しい。
「ううん、なんでもないの。これ返すから大事にしなさいよ」
「あいててて、思いっきり握るんじゃない!」
遠坂は嬉しそうに微笑んで、宝石を俺に手渡すとぎゅっと力を込めた。痛みで彼女の手を振り払うと、俺はさっさとお守りをポケットに放り込んだ。
この宝石は、俺の命を二度も救ってくれている。一度目は八年前のランサーに殺された時で、二度目は三年ぐらい前だったろうか。詳しい日時は覚えていない。だからといって、感謝していないわけではない。持ち主と会ったとしたら、俺はなにを返せばいいのだろうか。命よりも重いものなんて思い浮かびはしない。
「士郎、帰りはお茶でも飲んでくわよ」
「はいはい、師匠の好きな様に」
俺の懸念をよそに、遠坂は前を嬉しそうに闊歩している。果たして、今日の騒動はもう終わったのだろうか。
3
「ねえ、士郎」
「なんだ?」
「なんでもなーい」
「は? 遠坂、お前さっきからおかしいぞ。大丈夫か?」
士郎の失礼な言動にも、今は怒る気にはなれなかった。まだやばいのだ。少しでも油断すると目が垂れて腑抜けた顔になってしまいそうになる。
こんな嬉しいことがあるとは思ってもみなかった。今回のような不意打ちはいつでも大歓迎だ。
元々、今日は気晴らしに出かけただけだった。先日入ることを許可されたばかりのあの部屋に士郎を連れていけば、一応課外授業という体裁は繕える筈だと、紅茶を飲んでいるときに思いついた。士郎はルヴィアに叱られることを恐れていたようだったけれど、ちゃんと説明すれば歯軋りしながらも許すしかないだろう。どうせ彼女も同じ手を使って士郎を引っ張りまわすに違いない。
「士郎、さっきの宝石の持ち主が誰か知ってるの?」
「知らないから、困ってるんじゃないか。借りも返せない」
憮然とした表情の士郎に、私は答えを叫びそうになった。
なにを隠そう、士郎が捜しているのは私のことなのだ。彼はわかっていないみたいだけれど、そんなことをする心の贅肉の持ち主は、魔術師の中で私しかいないことをなぜわからないのだろうか。
宝石に魔力を貯蔵するのが、遠坂の魔術の基本だということを教えたにもかかわらずこの体たらく。不肖の弟子とはわかっていながらも少し悲しい。まあ、今日は見逃してあげよう。今の私は幸福の絶頂なのだから。
「じゃあ、持ち主が見つかったらどうする?」
私はさらに問いかけた。どう答えるのか、と想像する数秒間の興奮がたまらない。気分が高揚しているのがよくわかる。
「とりあえず、俺に不可能なことじゃない限り、その人の言う通りになろうと思ってる。俺を甦らせたりする魔術師なんだから、悪い人じゃないだろ、多分」
私は士郎の言葉に感心している様に装いながら、頭の中でなにを要求するか考えをめぐらせていた。本人がいっているのだから、この約束は絶対だ。取り消しは許さない。士郎はいったことを取り消すとは思わないけど、一応ね。
しかし、私にとって今の言葉は付属品にしか過ぎない。彼が八年間もそれを手放さないでいてくれたことがなによりの喜びになのだ。はっきりいって、あれはとても高価だ。換金したなら、しばらく遊んで暮らせる額が懐に転がり込んでくるだろう。そうしたなら、行き倒れることもなかった。なのに、士郎はずっと持っていてくれたのだ。これを私と彼の
絆
だと思うことは、恋をしている女の妄想なのだろうか。そうではないと信じたい。
私はそっと懐に手を入れて、士郎が持っているものと同じモノに触った。これはアイツの紅玉だ。いつもは冷たい石が今日は妙に暖かい。感傷だということはわかっている。でも、想ってしまうものはしょうがないじゃない。
さあ、そろそろ馬鹿な弟子に答えを教えて上げましょうか――。
「私、その宝石の持ち主のこと知ってるわよ」
「……へ? ほんとにか?」
士郎は惚けた顔でこちらを見ている。その表情に思わず笑いそうになった。いけない、いけない。感動的な場面なのに。
「それね、…………私のなんだけど」
「………………え、ええええええ!!」
前のめりの体勢で私の声に聞き耳を立てていた士郎は、悲鳴にも似た叫びを上げて仰け反った。
「士郎! 危ない!!」
そのまま後ろにこけていきそうな勢いだったので、私は彼の腕を持った。しばらくその体勢で二人とも固まっていた。私にいうことはなかったし、士郎は士郎で茫然自失としていた。三分はずっとそのままだったと思う。
「それで、なんでもいうことを聞いてくれるってことだけど」
「ぐうっ、却下はしないけど、できることにしてくれよ。…………今、考えれば当たり前だった。ランサーと戦ってたのは遠坂なんだから、俺があそこで死んでるって知ってるのはこいつぐらいじゃないか」
士郎は呻いたあと、なにかぼそぼそとつぶやいていた。どうせ、自分の馬鹿さ加減を悔いているのだろう。これでちょっとは賢くなるかしら。
う、でもどうしよう。なにを頼もうかしら。一つだけずっとして欲しかったことがあるんだけど、……とっても恥ずかしい。
「ねえ、士郎……」
頬が紅潮しているのを手で覆い隠して、私は彼に話しかけた。
「な、なんだ、遠坂」
私がよっぽど無茶な要求をするように見えるのか、士郎はあからさまに怯えていた。
「わ、私のことを名前で呼びなさい!!」
ああ、言っちゃった。くそう、士郎が自分からいってくれるのを待つつもりだったのに、今私が士郎に願うことなんてこれ以外にありはしない。だって、魔術の研鑽の役には立たないし、彼も貧乏だ。これも士郎の罪悪感を除くためにしょうがなく。……ごめんなさい、嘘つきました。ただ呼んで欲しかっただけです。彼に
凛
って、名前で。
「な、なな、なにいってるんだ。遠坂、そんなものでいいのか!?」
「いい、それだけでいいから! 早く呼びなさいよ!!」
私はもう開き直ることにした。あんな恥ずかしいことを口にしたのだ。遠坂凛に怖いものなんてない。
「それじゃ、いくぞ」
私と士郎は、音を立てて唾を飲み込んだ。どっちも緊張しているのだ。名前をよぶことを要求している女とそれを不審がっている男が一緒にテーブルについているなんて、ロンドンどころか世界でも私たちしかいないんじゃないだろうか。
「り、り、凛」
士郎は顔を真っ赤にしている。それは私も同じだろうけど、そんなのは気にしたら負けだ。なにと戦っているのかわからなくなってきているが負けは嫌だ。
「発音が悪いから、もう一回」
「……凛! ああ! もうこれでいいだろ! くそ、おもちゃにしやがって!!」
士郎はよっぽど恥ずかしかったのか、器用に椅子の上で全身を悶えさせている。しばらく、こちらの世界には帰ってきそうにない。
「士郎、嬉しかったよ」
士郎には聞こえていないだろうが、私は話しかけていた。今、私は微笑んでいるだろう。だって、その表情以外とれないのだから、しょうがない。
春の青空、頬を撫でていく爽やかな風。好敵手である二人の顔を空に浮かべながら、私はようやく追いつき始めたことを実感した。
だって、私だけ名字だなんてずるいじゃない。
次の日曜日、私のことを名前で呼んでいる士郎をルヴィアが怒ったのだが、それはまた別の話だ。
脱稿 2004/03/20 16:27:51
後書き
うわぁぁぁぁ、凛も好きだぁぁぁぁぁ。<解放感でおかしくなっている。
というわけで、SRRシリーズ第三弾、「抜け駆け」をお届けいたします。今回はルヴィアが出てきていませんが、前回の濃さを考えるとこれで釣り合いがとれたでしょうか。次回は必ず登場しますので、ご安心あれ。
約一週間で、短編を三本お披露目したわけですが、私にしては恐るべきペースで作品を発表しました。これからもできうる限りこのペースで続けていきたいところです。
途中に出てくる回廊の話は、フィクションのフィクションです。あまり追求しないでくださいね(笑)。
次回は長編になると思いますが、二話まで書いてから発表しようと思いますので来週末までずれ込むかもしれません。ちょっと凝った演出をしようと思っていますので、ご期待ください。
今回も感想メールにはとても助けられました。いただければ間違いなく早くなるでしょう。掲示板に書いてくださっても構いません。しっかりレスしますからね。
メールも今のところ完全にリプライできている筈です。帰ってきていない方はご一報ください。
では、また次の話でお会いしましょう。