黒金美姫




1



「待て、野郎!!」
「待てって言われて誰が待つか!! へへーん、馬鹿ぁ」
 世界のあらゆる場所で繰り広げられているであろう会話は、ここ――イギリスの首都、ロンドンの街中でも変わりはない。
 追いかけられているのはまだ幼い少年。人波で混雑している通りを体が小さいという利点を生かして器用に縫うようにして走っている。脇に質素な服には似合わないショルダーバッグを抱えている。
 それが今回の騒動の原因だろう。
「子供だからって容赦しないぞ、コンチクショー!!」
 おいかけているのは、まだ顔に少年の面影を残しているが背の高い青年だ。髪は長くも短くもなく蜜柑色で、あたりに沢山いる白人とは違い、東洋人のようだが流暢な英語を使用している。そして、日本人にしては珍しくスラングも堪能のようだ。
 ただ、追跡が上手くいっているとはいい難い。体の小さい子供と違い、もう成人しているであろう青年は、体格はシャープだが、それでもハンデであることは否めない。一度も足が止まらない少年と違い、何度も通行人とぶつかっては頭を下げてから追いかけ始めるので、どうしても追いつくことはできなかった。
 子供の姿を見失はないのは、青年の身体能力が高いからだろう。そうでなければ、とうに少年は盗んだバッグを自分のものにできていたに違いない。
「やべっ!」
 青年の前を走っていた少年は、コーナーを曲がった途端叫び声を上げた。その声を聞いて、青年はにやりと笑う。
「もう逃げられないぞ」
 青年は足に込める力を強めた。道は大きく広がり、人はまばら。彼が遠慮する要因はなに一つとしてない。もともとすばしっこいから捕まえられなかったのだ。走る速度は大人である青年の方が当然早い。
 そして、五十メートルほど走ったあと、青年は少年の首根っこをつかんでいた。
「ほら、早く盗ったものを返せ」
「うわぁぁぁん、ごめんなさい。許してー!」
 ぶらぶらと宙に浮かされながら、少年は大泣きし始めた。脇に挟んでいたバッグを胸に抱えて、ただただ謝罪を繰り返している。もちろん嘘泣きなのだが、青年は気付いておらず少しうろたえていた。
「返せば、警察には突き出さないぞ。ちゃんと持ち主には話をつけてやるから」
「ほんと?」
 しゃくり上げながら、少年は念を押すようにたずねた。本当に芝居の上手い少年泥棒だ。相当、場数を踏んでいるに違いない。
「ほんとだ。だから、早くバッグを返すんだ」
 右手で少年を浮かせたまま、青年は左手を差し出した。目を真っ赤にした子供は所在なげに、その左手と青年の顔を何度も往復して見ていたが、「はぁー」と溜息をつくと嫌そうにバッグを返した。もう、さっきの泣いていた雰囲気はどこにもない。
「返しただろ。だから早く放してよ、お・に・い・さ・ん」
 いきなりの口調の変化に驚きながらも、青年は少年の首根っこから手を放した。
 地面に降り立った少年は、手で服を何度かはたくと、青年に向き直って、なにをいうこともなくいきなり股間を蹴り上げた。
「邪魔しやがって、不能になっちまえ、ばーか!!」
「こ、こ、この野郎」
  苛烈な置き土産と少年とは思えない罵りを残して去っていく少年に向かって、右手で股間を押さえて、バッグを持っている左手を縋るように向ける青年。
 けれど、痛みも子供も待ってはくれない。地獄の責め苦に似た痛みに呻きながら、これ以上の追跡は断念してうずくまる。
 くそっ、思いっきり蹴りやがった。
 脂汗を額に滲ませながら、煉瓦敷きの地面と睨めっこする。読者貴兄の方々にはわかるだろうが、この痛み半端ではない。この青年がものもいえず、一歩も動くことができず唸るのもわかっていただけるであろう。
「うん?」
 と、その時。その青年の肩が叩かれた。もしかしたら、心優しい誰かが心配して駆け寄ってきたのかもしれない。そんな淡い期待を抱きつつ、青年は振り返った。天下の往来、悪魔が囁いたりはしないだろうと信じて。
 だが、世界はそんなに甘くなかった。そこに立っていたのは、
「……赤いあくま」
 青年は思わずつぶやいていた。そこに立っていたのは確かに悪魔ではなかった。蝙蝠のような禍々しい翼は生やしていなかったし、毛むくじゃらでもなかった。怪能力とは無縁そうな、美人が彼の後方には立っていたのだ。
 だが、その美女が彼にはデーモンに等しい存在だった。数年前別れた時とは違い、特徴ともいえるツインテールを下ろして、ストレートにしていたが、彼女は青年にとっての「あくま」だった。
「あら、衛宮くん。わたくし、変な言葉を聞いたのだけれど、気のせいかしら」
「あ、ああ、聞き間違いだぞ。俺はなにもいってない」
 冷や汗が滝のように背中を流れている。もう股間の痛みなどどこへやら、衛宮と呼ばれた青年はもう目が泳ぎまくっていた。どうやら、嘘のつけない人物のようだ。
 青年の聞き苦しいいい訳を聞いても、美女はパーフェクトに微笑んでいた。だが、青年にとってはそのことがとても恐ろしい。彼の知り合いには笑っている時が一番怖い人物など他にいない。いや、一人だけいることはいるのだが、そちらは最近知り合ったばかりで、原初の恐怖という点で目の前の女性には及ばない。
 インプリンティングというものは鳥の雛だけではなく、どうやら人間にも適用されるようだ。
「それにしても久しぶりだな。何年だっけ? 遠坂」
 冷や汗をかきながらも立ち上がって青年は美女と相対する。そして、その女性の名――遠坂凛を口にする。
「五年でしょ! 士郎が勝手にどっかいっちゃったから、桜も藤村先生もイリヤも大変な騒ぎだったんだから。家なくなるかと思ったわよ」
 まぁ、私も心配したけどね、と付け加えてかすかに頬を赤く染める凛の仕草はとても可憐で、さっきまでの恐ろしさは消えてしまっていた。
 青年――衛宮士郎はその変わっていない照れ屋な性格に思わず微笑んでしまう。誰にも相談することなく故郷を飛び出したが、どうやら知り合いはみんな元気らしい。会いに帰る時の惨劇は想像するにとても恐ろしいが、殴られるのもいいかもしれない。彼はそれほどの迷惑をかけたのだから。だが、死なないことは保証されていないが。
「まあ、すまなかったとは思うよ。でもな、いったら絶対反対されることはわかりきってたからな。もしかしたら、監禁されるかもと考えると、おそろ……いや、悪いなと思ってさ」
「もう……それで、どこかでこれまでのお話聞かせてもらえるかしら?」
 可愛く口を尖らせて、一応語尾は疑問形だったが、凛の目は「喋らんかったら、ガンドを山ほどお見舞いしたるからな」と関西訛りで語っていた。恐ろしい迫力である。士郎は躊躇することなく本能で頭を何度も縦に振っていた。
「でも、ちょっと待ってくれ。この鞄の持ち主にことわ――」
「シロウーー!!」
 士郎が言葉をいい告げぬ内に、遥か後方から彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「こっちだぞ、ルヴィア」
「まさか……どうして」
 隣で呆然とつぶやく凛に気付かないで、士郎は走り寄ってくる人影に大きく手を振った。
 肩まで伸びたウェーブのかかった金髪、サファイヤが中心に誂えてあるような大きな目。端正な顔立ち。いきせきかけて走ってくるのは、遠坂凛にも劣らぬ美女だった。着ているものはシンプルだったが、見る人が見ればお金がかかっているだろうとすぐわかるだろう。
 ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。――それが絶世の美貌を誇っている女性の名だった。
「はぁ、はぁ。シロウ、ちゃんと取り返していただきましたか?」
「ああ、当たり前だろ。ほら、これ」
 士郎は股間を蹴り上げられたことなど忘れてしまったのか、なに食わぬ顔でルヴィアに持っていたバッグを返した。
「ありがとうございました」
「礼はいいさ。でも気をつけないと、また盗られちゃうぞ」
 満面の笑みで受け取るルヴィアに照れたのか、士郎は頬を朱に染めてそっぽを向いた。
「それなら、またシロウに取り返してもらいますから、いいんですの」
 恥ずかしそうに頬をかくシロウを見て、ルヴィアは微笑みながらいう。なんだかとってもいい雰囲気だ。しかし、忘れていないだろうか、この場に「赤いあくま」がいることを。
「ルヴィア嬢。この男のお知り合いですか?」
 士郎は声のした方に振り向き驚愕し言葉をなくした。
 ひぃぃ、なんだか、遠坂が本気モードでキレてる。
 そんな彼に口がきける筈もなく、応戦したのはルヴィアだった。彼女は一瞬だけ驚くと、牽制するように鼻を鳴らすと凛に負けない雰囲気を醸し出した。
「あら、こんな所でお会いするなんて奇遇ですわね、ミス・トオサカ。ええ、シロウは私のパートナーですのよ。一緒に住んでもらって、魔術の研究の手伝いをしてもらっています。あなたこそ、シロウのお知り合いですか?」
 場の雰囲気が一層重くなった。近くを通る人がいたのなら、この重くどうしようもない空気に押しつぶされていただろう。もちろんそんな酔狂な人物はこの世にはいない。
「どういうことよ、士郎!」
 名前で呼んだことに気付いたルヴィアは、右の眉を自分以外にはわからないだろう程度に吊り上げた。そんなことは露知らず、凛は士郎を睨みつけていたし、士郎は怯えるだけが精一杯だった。
「いや、それにはとても長い説明が必要なんだ。こんな路上では無理だぞ、うん無理だ」
 じりじりと後ずさりながら、士郎は根拠のないごまかしを始めた。当然、凛に通じる筈もない。
「ルヴィアさん、あなたも聞きたい話がおありだと思うから、どこかのカフェにでも入って、じっくり話し合いましょうか」
「ええ、結構ですわよ。ミス・トオサカ」
 俺の意見は聞かないのか……
 士郎はそんなことを思ったが、二人の間に迸る電撃が見えたような気がして、口を開く勇気は生まれない。
 先を争うようにして歩いていく二人のあとをとぼとぼと追いかける衛宮士郎の背中には「正義の味方」の片鱗も見えなかった。


2



 あの冬木での聖杯戦争からもう八年の時が経つ。高校生だった衛宮士郎も二十代の後半に差し掛かろうとしているのだ。時の流れは速いといわざるをえないだろう。
 それなのに、この様はどうだろうか。二人の美女に振り回されてほとほと疲れ切っている。こんな姿を最愛の少女に草葉の陰から見られていたとしたら、いいわけはできないだろう。一刀両断されてしまうかもしれない。
 まあ、彼女は死んでしまったわけではないのだが。
「門前で倒れてたですってぇ!!」
 オープンカフェに、凛の絶叫が響いた。店内の客だけでなく通行人でさえも、目を丸くして美女の唐突な行動に驚いている。
「ミス・トオサカ、もう少し淑女らしく振舞っていただきたいですわ」
「そうだぞ、遠坂。俺もちょっと恥ずかしい」
 俯いて抗議する士郎。凛として紅茶のカップを持ち上げているルヴィアも少し頬が赤い。それを見て落ち着きを取り戻したのか、凛は顔を真っ赤にして咳をするとゆっくり腰を下ろした。
「で、どうしてそうなったわけ?」
「この国にきたのはよかったんだけどな、遠坂にでも会おうかと思ってロンドンをうろちょろしてたら、お金が底をついちゃってさ、お腹は空いてくるし、アルバイトもみつからず、ついに体力の限界を迎えてな。こう気が遠くなってきてさ、次に意識を取り戻した時にはもうベッドの上だったよ。まあ、そういうことだ」
「なにが、『まあ、そういうことだ』よ。あんた、馬鹿じゃないの? 私の居場所が知りたかったら、電話でもすればいいでしょうに。桜にはちゃんと住所も電話番号も教えてあるんだから」
「そうすべきだったよ。でもなぁ、腹が減って頭が朦朧としてくると、なにも浮かばなかったんだよ。自分が歩いてるのか、飛んでるのかも理解できなくなってきてな、貴重な体験だったよ」
 ポンと手のひらを打ってうなずいている士郎に、凛は溜息を漏らした。
「それで、私とシロウが知り合いになれたのだから、よかったのではなくて」
「うん、そうだそうだ。あんなことでもなきゃ、ルヴィアとは知り合ってないぞ」
 思わぬ助け舟に、士郎は嬉しそうに首を縦に振っている。
「だからって、衛宮くんの馬鹿は治ってないわ」
「ば、馬鹿って……」
 凛の冷たい言葉に、士郎は凍りついた。これは本当に呆れているのとは別に色々な葛藤があっての言葉だったのだが、もちろん士郎は気付いていない。馬鹿といわれて、ただ傷ついていた。
「じゃあ、今士郎はエーデルフェルト邸でなにしてるのよ? さっきはそちらの方がパートナーだとかおっしゃっていたけど」
 正面に座って紅茶を飲んでいるルヴィアを目で牽制しながら、凛はいう。そのことにルヴィアは気付いていたが、カップを皿に戻してシロウを見つめた。
 徐々に緊張が高まり始めるテーブル。士郎はなにが起こっているかは理解できなかったが、ただその不穏な空気だけは体に感じていた。
「そうだな……執事の見習いみたいなことをしてるな。そりゃ、ルヴィアが猫の手でも借りたいって忙しい時なら俺の手でも借りるだろうけど、大体は彼女の為にお茶を淹れたり、軽い食事を作ってる方が断然多いぞ。さっきのパートナー云々は、ルヴィアが俺に気を遣ってくれたんだろ」
「そ、そうじゃありません! 私は本当にシロウのことをパートナーのように思っています」
 ルヴィアはさっきまでの落ち着きぶりはどこへいったのか、顔を赤くして拳をきつく握り力説した。
「でもなぁ、俺はなんの役にも立ってないし」
「そんなことはありません。シロウのおかげで私の研究はとても捗っています。いてくれるだけでいいんですよ。私は貴方のような魔術師は知りません」
「そんなにいわれると照れるな。役に立ってるなら、倒れた甲斐があったってもんだよ」
 頬を掻いて照れる士郎にうつむくルヴィア。この時士郎の頭の中では、怒って竹刀を振り回している少女の姿があったけれど、どうしてかはわからなかった。
「二人とも、……ちょっといいかしら?」
「なにかしら、ミス・トオサカ」
「私を放って、二人で会話してほしくないんだけど」
「べ、別にそんなことはないぞ。断じてない」
「ならいいけどね、衛宮くん」
 凛に横目で睨まれて士郎は背筋を伸ばした。氷の棒を背中に突っ込まれたような悪寒に体が震える。
「……それで、あなたいつまでここにいるの? まだいるんだったら、一つ提案があるんだけど」
 興がさめたのか、凛は大きい溜息をつくと意味ありげに士郎を一瞥する。向けられるプレッシャーが弱まって士郎は一息ついたが、今度は逆から向けられる心配そうでその上恨めしげな視線に思わず動揺する。
 どうしたっていうんだ、ルヴィア。
 彼女とは思えない幼い仕草に思わずドキリとさせられる。深呼吸して鼓動を落ち着けてから口を開く。
「まだ決めてないぞ。当分はここにいるつもりだけど、いつかは出ていくと思う。そろそろ冬木にも帰らないといけないしな」
「なら、士郎、……私の弟子にならない?」
「は?」


3



「ったく、久しぶりに会ったっていうのに、あいつは」
 私こと遠坂凛は、ティーカップに紅茶を注ぎながら、ここにはいない「あいつ」に向かって毒づいた。
「急に姿を消したと思ったら、ひょっこり現れるなんて……」
 立ち昇ってくる紅茶のいい香りに私はは思わず目を細めた。そろそろあの赤い外套の騎士の淹れてくれた紅茶に追いついただろうか。
「それにしても、背も高くなって、ますますアイツに似てきちゃったかしら」
 紅茶を一口含んで熱い吐息を漏らす。目を瞑ると、脳裏に浮かぶのは衛宮士郎の姿。
 五年前のまだ幼さを残した仕草はどこにもなく、一人の男となった彼がいた。通りを走っていく姿を偶然見かけた時、思わず見惚れてしまったことを思い出す。
 股間を蹴り上げられるという失態を演じていたもののそんなことは一切気にならず、いつの間にか近付いて肩を叩いていた。どきどきした数秒間。
 それなのに、
「まったくもう、あいつは私のことどう思ってるってのよ、一度聞いてやろうかしら」
 と、思わず愚痴ってしまう。それは仕方がないことだと思う。私がどれほど衛宮士郎を見つけて胸躍らせていたか、彼は微塵も気付いていなかったのだ。まあ、気付いていたならガンドの乱れ打ちをお見舞いしていただろうが。
 まぁ、それぐらいは許してやっていいと思う。私はとっても心が広いから。
 しかし、すぐに心が乱れた。浮かんでくるのは時計塔では犬猿の仲のあの女の顔。
「あのルヴィアゼリッタが女らしくしてるなんてね」
 カフェでの言葉。あれは確実に告白だと思って差し支えないだろう。士郎が微塵も気付いていない様子だったのには、さすがの私も少し不憫に思ってしまった。
 おそらく、士郎の心にはあの聖杯戦争を共に駆け抜けたセイバーという少女が、まだ根強く残っているのだろう。八年前、学校に通う途中の道で、彼は大丈夫だと言った。それも事実だが、最愛の女剣士に囚われていることもまた事だと思う。
「最近の男みたいに、軟派になっちゃえば楽なのに」
 ……嘘だ。あいつにはそんな風になってほしくない。不意に胸が疼いて、私は少しだけ悲しくなった。
 私じゃセイバーに勝てない……。
 悲しみの原因は敗北感。自分では、衛宮士郎にとって彼女以上の存在にはなりえないことを知っているから。セイバーはずるい。いなくなってしまえば勝負を挑むことすらできないのだ。それでも士郎が悲しんでいれば漬け込む隙があるというのに、あいつは一人で立ち直ってしまった。
 今思えば、それを悟った七年前が私にとっての初めての挫折だったのかもしれない。
「なのに、随分格好よくなっちゃって、ちくしょー諦められないじゃない」
 大きな溜息をつき天井を仰ぎ見て私は自分の不幸を呪った。せっかく封じた想いが胸から(こぼ)れ落ちていくのを感じる。七年前に絶対無理だと言い聞かせたはずなのに、心がいうことを聞かない。ブレーキを踏まずに、全力でスタートすることを望んでいる。
 あのルヴィアの拗ねたような顔がとどめだった。やばい、()としちゃうと思ってしまった。だって、女の私から見ても息が止まるくらいの可愛らしさだったのだ。士郎は――理由はわからないけど――びびっていて気付いていなかったけど、もし私が男だったら死んでも抱きしめてしまうだろう。うん、それぐらい可憐だった。
 あの朴念仁を相手にするのなら、二人がかり位で丁度いいのかもしれない。仕草には敏感な奴だけど、心の方はとっても鈍いから。
 それに、絶対士郎はアイツのようにはさせない。士郎にはいってないけど、アーチャーは衛宮士郎のいき着いた姿の一つだった。アイツは一人、最後に全てを裏切られて死んだ。好きとかそういうものを別にして、友人にああいう終わり方を迎えてほしくないと心から思う。
 そうだ! ルヴィアゼリッタと手を組むのは正直気が食わないけど、こうなったらそうはいってられない。このことを話せば、目の色を変えるだろうが、この天才魔術師は敵に塩を送るぐらいで丁度いいハンデだろう。それにあとで文句をいわれるのは、ズルをしていたみたいで気分が良くない。心の贅肉だけど、生まれた時からの性分だから仕方ないだろう。
 ロンドンを離れようとしたってもう逃がさない。どうせ、時計塔でできるこどなど高が知れている。地の果てまでついていってやるのだ。
 冬木に連絡してやると脅迫するのもおもしろいかもしれない。私の妹と自称姉・二人組が一日もせずに飛んでくるだろう。
「くっくっくっく、士郎もう逃がさないわよ」
 部屋中に私の笑い声が響く。こんなに楽しいのは一体いつ以来だろうか。


 このあと、次々と湧き出てくるアイデアを纏めるのに必死になって、思わず眠るのが朝方になってしまったのは絶対に秘密だ。







「はぁー」
 折角床についたというのに、私は少しも眠れなかった。さっきから出てくるのは溜息ばかり。少しも安眠できそうになかった。
 思い出されるのは昼間のカフェ。なぜ、あんなことをいってしまったのだろうか。あれではまるで好きだと伝えてしまったも同じではないだろうか。
 頬が火照っているのが触らなくてもわかる。きっと林檎みたいに赤くなっているに違いない。
「綺麗な……三日月」
 枕元の窓から見える冷酷な月が私を魅了する。彼、エミヤシロウも私と同じ様に、今、月を眺めていないだろうか。
眺めていてほしい。そう思うと顔だけでなく、胸までも熱くなった。
 この狂おしいまでの感情の渦は一体なんなのだろうか、……いや、私は誰にきかずともその答えを知っている。ただ、生まれてから今に至るまで魔術師として生きてきたというのに、魔術への情熱と秤にかけても惜しいとさえ思わないこの気持ちを認めるのが怖いのだ。
 おそらく、私の世界は反転し、180°変わってしまうだろう。世界はなんの変化も見せないに決まっている。見ている私の方が変化してしまうのだ。
 とんとん。
「誰?」
 いきなりドアがノックされて私は一瞬鼓動が跳ね上がったけれど、なんとか動揺を悟られない程度に落ち着けると静かに声を発した。
「私です、お嬢様」
 ドアの向こう側から聞こえてきたのは、私のことを子供のころから世話してきてくれたメイド長のマーサだった。もう私の祖母と同じぐらいの歳だというのに、背筋はしゃんとしていて動きに無駄はない。躾で厳しいことで有名で、幼い頃はよく叱られたものだった。
「何か用かしら? マーサ」
「いえ特には、……ただ」
 厚い扉の向こうから聞こえてきたのは、彼女特有の平板な声だった。私だけにしかわからないような微妙な感情が上乗せされてはいるが、誰にもわからないだろう。この屋敷で、彼女の声の微妙な変化を聞き分けられるのは、私とシロウだけだ。
 彼は鈍感でどうしようもない朴念仁だけれど、なぜかそういうことに勘がいい。役に立つのか立たないのか判断に困る。
「ただ?」
 私は彼女がいいやすいように繰り返して、次の言葉を催促する。
「エミヤがお嬢様の様子がおかしかったと申しておりまして、もう夜ですから、彼の代わりにやってきた次第です」
「そ、そ、そうですか」
 駄目だ。そんなことを聞いてしまっては、エーデルフェルト家の人間ではいられない。ただのルヴィアゼリッタになってしまう。今の顔だけは誰にも見せられない。茹蛸もかくやといった表情だろう。
「元気そうで、安心しました」
 それをいうと、扉の前の人影は去っていく。硬い靴音がそれを告げていた。
「待って、マーサ!」
 ベッドから飛び出して、ドアノブに手をかける。顔は見られたくないけれど、いっておかなければならない。
「わかっています、お嬢様。このマーサ、さっきのことは忘れます」
「あ、ありがとう」
 思わず全身から力が抜けた。扉を背もたれにして、床に直接座る。温かみの一切ない床の冷たさが心地よかった。
「お嬢様、がんばりなさい。人生の先輩のアドバイスです」
「え、ええ……」
 ええ、そうね、私がんばるわ……って、マーサ!?
 私はわけのわからない感情に突き動かされて、自分でも知らないうちに立ち上がってドアを開けていた。左右を見る。もう誰もいなかった。
 途端、これ以上赤くならないだろうと思っていた顔に、さらに血が集まった。もう鏡も見たくない。下品だけれど、洗面器に張った冷たい水に顔を突っ込みたい気分だ。きっと気持ちいいに違いない。
「はぁー」
 大きな溜息をついて、ベッドに戻る。乱れた寝具を元通りにして、ゆっくりとベッドに入った。
 もう駄目だわ、わたくし、戻れない。
 私は目蓋を閉じて、シロウの顔を思い浮かべた。
 行き倒れていたのを拾ってもう四ヶ月。色々なことがあった。
 最初はなんの変哲もない一般人だと思っていた。それが些細なことで魔術師だとわかり――彼は魔術使いだといって一歩も譲らなかったが――、いつの間にか気の置けない友人に変わっていた。
 彼が魔術の探求に重きを置いていないとわかった時、我知らず怒っていたけれど、一緒にいる内にそれも当たり前だと受け入れてしまった。
 なんと不思議な男なのだろうか。
 けれど、それ位で丁度いい。前の私を完膚なきまで打ちのめしてしまったのだ。それぐらいのミステリィを内包している男であってほしいと願う。魔術の探求の他に、追い求めるものができてしまったが、それもいいだろう。なんといっても、私は天才なのだ。その程度の難度がなければ、おもしろくもなんともない。
 いわれないでもわかる。今、私はとても楽しそうに笑っているだろう。いけ好かないトオサカ・リンが纏わりついてくるだろうが、それも好都合だ。私の知らないエミヤシロウの情報を引き出してやろうと思う。
「シロウ、絶対に逃がさない」
 さっきまでは冷酷に見えた月さえも、私を祝福しているような気がした。







「蒼い硝子みたいな月がよく見えるよ、セイバー」
 エーデルフェルト邸の屋根に寝そべりながら、俺は夜空に浮かぶ三日月を見ていた。彼女の祖国から見えるというだけで、一層美しく見えるのはひいきだろうか。
 もうあの聖杯戦争から八年が経った。彼女の姿はうすぼんやりと曖昧になりつつある。これが時の流れというやつなのだろう。
「それにしても、……今日は疲れたなぁ」
 俺は昼間の惨劇を思い出して、思わず溜息をついていた。
 五年ぶりの遠坂との再会が嬉しくないはずがない。あんな目に遭ったというのに、あいつらしく生きているみたいでよかったと思ってしまった。まったく、損な性格だと思う。
「けど、『弟子にならない?』はないだろうよ」
 いつ行方をくらませるのかわからないんだから、俺は断ろうと思っていた。だというのに、蓋を開けてみれば、俺は遠坂凛とルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの共通の弟子というわけのわからない身分に収まっていた。
 いや、俺だって口は挟もうとしたんだ。この八年間の修行の成果をふまえてだな、格好よく意見を……。
 それなのに、
 ――黙ってなさい!!
 って、鬼もかくやという表情で怒鳴らなくてもいいじゃないか。今思い出しても恐ろしいぞ。
 でまあ、そういうことになったわけだ。正直、俺なんかにはもったいない待遇だと思う。知り合いということを差し引いても、二人は俺なんかが遠く及ばない魔術師だ。以前、遠坂に師事していたとはいえ、まだ魔術師のまの字も知らないひよっこなのだから最大限活用させてもらおうと思っている。
 あの二人が集えば必ず喧嘩になるような気がするけど、授業料だと思えば……安いぐらいだろう?
 思い返せば、故郷を突然の衝動で飛び出してもう五年にもなる。色々な場所で色んな人と出会った。一言で語れるようなうっすぺらい経験じゃない。なん度喜び、なん度泣いただろうか。現実に脅かされながらも、、まだ俺は理想を胸に抱いて生きている。
 ――セイバー、俺は元気に生きてるよ。
 ――多分、もう逢えないだろうけど、いつか逢えたらいいなと思ってる。
 ――話したいことはたくさんあって、尽きることはないだろうし、君の話を聞くのもいいだろう。
 世界中を見守っている月に、俺は語りかけていた。遠坂と会ったからだろうか、少し感傷的になっているのだろう。
 目を瞑ると、鮮明に浮かぶ彼女の姿。こんなにもはっきりとした彼女の像は何年ぶりだろうか。俺に微笑んでくれるのか。

 だから、
 夜空に浮かぶ月よ、
 今だけは、頬を流れていく涙を忘れてほしい。







END



[Index]

 脱稿 2004/03/13 14:58:21



 後書き

 というわけで、初めてのFateのお話です。
 執筆期間は実質一日。このサイトに置いてある作品の中では最速です。やっぱり勢いというものは恐ろしいですね。
 このお話は人気が出れば続ける予定です。一応、長編のプロット案は練っております。続きが読みたい方は感想をどしどしお寄せください。私もルヴィア嬢をもっと書きたいです(ぇ。
 少しだけばらしますと、長編は時計塔を舞台にする話になる予定です。
 では、(あれば)また次の話でお会いしましょう。


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