In the case of her



1



 バゼット・フラガ・マクレミッツは、暗闇の回廊を一人歩いていた。
 彼女にとっては冷笑にしか値しない“最強”が待つであろうという扉を開けて、何分経っただろうか。そう長くはないが短いわけでもない。休みなく歩き続けているというのにまだなにかが起こりそうな場所には辿り着けないでいる。
 バゼットは歩きながら天井を見上げた。
 濁って液体化している闇がそこにはある。歩く度に、踵の音が回廊に反響した。耳に残響する暇もなく繰り返される単調な音。沈殿した闇とノイズが、バゼットの心を揺さぶる。
 揺さぶられる感情は一つ――。
 ――寂しい、か。私にもまだそんな感情があったんだな。
 バゼットの無味乾燥している表情にかすかな笑みが灯った。嘲りの色は少しも浮かんでおらず、ただ恥ずかしそうな想いの片鱗が覗き見えている。
 “笑う”などという行為をバゼットは忘れていたことがあった。
 八年前のある夜――油断から聖杯戦争を離脱した時から数年に渡っての期間である。笑みだけではなく、怒りや悲しみも失っていた。ただ生きているだけだった。どうして生きているのか。そんなことすら己に問いかけず、彼女はただ動物がそうするように息を吸っていた。
 そんな頃だ。バゼットが、衛宮士郎と出会ったのは。
 二人が知り合ったのは本当に偶然のことだった。ある外国の片田舎、山に囲まれた質素な村での魔術災害(マジックハザード)がきっかけである。
 その地域に長く陣取っていた魔術師が亡くなり、なんの因果か遺産が表に流れ出る事態となったのだ。その処理を任されたのが、魔術協会から依頼されたバゼットだったのである。士郎は見聞を広めるため偶然その村に滞在していた。あくまで偶々(たまたま)なのだから、出会いというものの特異さを認めないわけにはいかないだろう。
 その時、二人は勘違いから殺しあっている。もちろん、未遂で終わったのだが、士郎は本当に死にかけたらしい。己の身をもって相手の実力を知る。士郎がバゼットに頭の上がらない理由の一つである。
 士郎が殺されかけた理由は、魔術師の遺品を狙っているのではとバゼットに思われたからだった。その誤解は二人が戦っている間に解けたのだが、今度は本当に遺品を狙った輩が現れたのである。
 士郎とバゼットは力を併せて遺産を守った。多勢に無勢、命を奪い合う戦闘を幾度経ている内、バゼットは己が“人間”へと戻ったことに気付いた。表面に浮かび上がるのは些細な感情だったけれど、“無”ではなく“有”だった。
 ――昔からエミヤは危うい奴だったからな。
 衛宮士郎という人間は、バゼットが今までに出会ったことのないタイプの魔術師だった。死に臨んで魔術をするというのに、決定的に我というものが欠けている。魔術使いだと(うそぶ)く年少の青年に、彼女は圧倒的に振り回された。なんせ彼女の持っている魔術師というもののイメージが全く役に立たないのだ。他人のことには迷惑なほど首を突っ込むくせに、自分のことは放ったらかす。そんな士郎の在り方に、バゼットは憤り、怒りを覚え、時には暴力的な手段に出たこともある。元々、姉御肌の面倒見のいい性格である。仕事が終わった後、放っておけなくなったのも予想されうる事態だった。
 ――けどまあ、あんな二人がいるなら。エミヤも大丈夫だろうな。
 さっきあった出来事を思い出し、バゼットはくすりと笑った。敵の懐の中だというのに、あの三人はそんなことはどうでもいいらしい。士郎もバゼットから見れば破天荒な人間だったが、あの二人も負けず劣らずである。
 ――なにせ、あれはただの痴話喧嘩。いや、ただのじゃれあいだったからな。
 笑い声を漏らしながら、バゼットは思った。あの二人ならば、衛宮士郎をきっと更生させるだろう。やれる人間というものは、どんなに重い荷物を背負っていたとしてもやろうとしたことはしっかり成せる人間だ。
 ――エミヤは根本的に間違っている。なにもないというのなら、詰め込みたいものを好きなだけ詰め込めばいいじゃないか。無駄なもので一杯になっていて詰め込めないよりも、それは数倍も幸せなことだろうに。


 考え事をしているうちに、どうやら目的地に着いたようだった。
 暗闇に慣れた眼差しの先――ぼんやりとほのかに明るい部屋の入り口が見える。扉はない。その代わりに、一枚の大きな石の壁の中央から横幅三メートルぐらいが、アーチ上に切り取られている。切り口はレーザーメスで切ったかのように滑らかだった。
 その手触りのよい門に手をかけながら、バゼットは慎重に中を覗いた。
 ――異様な光景である。大きな長方形の部屋に、直径一メートルほどの太い柱が乱立していた。いうなれば、大理石の森だろうか。バゼットは部屋がどこまで続いているのか調べようとしたが、人工の樹木たちに視界を遮られ諦めた。他に道はないので、足を踏み入れるしかない。嫌々ながらもバゼットは樹海へと身を投じた。
 柱を掻き分けながらゆっくりと歩く。死角が多すぎて、辺りを察知することを疎かには出来ない。
 頭上では薪が()ぜる音がしている。松明が燃やされているのだ。回廊よりは明るいけれども、薄暗いことには変わりがない。背中を柱に押し付け、出来得る限り死角を減らしながらバゼットは前へと進む。
 柱と柱の間にあるわずかな隙間から、ようやく向こう側の壁が見えた。振り返ると、同じような曖昧さで入り口の方の壁も視認出来た。ここが部屋の中央なのだろう。バゼットは柱に体重をかけ、ほっと一息ついた。
 ――その時である。松明が燃える音だけが聞こえていた頭上から、低く汚い声がしたのは。
「ほう、女か。楽しめそうだな……」
 バゼットは弾けるようにして俯いていた顔を上げた。まさかという思いが体中を駆け巡る。気配は全くなかったのだ。気を抜いていなかったというと嘘になるが、辺りにはなにもいない筈だという自信だけはあった。だからこそ、少しだけ気を許したのだから。
 しかし、先ほどの忌々しい声は幻聴ではなかった。きっと睨みつけた視線の先には、同じぐらい不吉なものが浮かんでいた。
 ――白い髑髏面だ。曖昧な明かりに掻き混ぜられ希薄になった闇の只中、作り物じみた濁った乳白色の髑髏が浮かんでいた。
「なんて馬鹿な話だ」
 意味のないことだと理解しながらも、バゼットは吐き捨てずにはいられなかった。飛び退く暇もなく、耳へとかすかに飛び込んできたのは三つの風切り音。
 ――どうする?
 考えることが出来たのはわずか一瞬。
 魔術を発動させるような時間がなければ、己の身体を盾にするしかないだろう。一瞬で判断を下し、バゼットは迷うことなく左腕を顔の前に掲げた。一瞬遅れて、なにかが腕を穿ち深々と突き刺さった。熱に似た痛みが、腕を起点にして体中へと広がっていく。
 バゼットの左腕に突き刺さったのは、柄の短い漆黒の短剣だった。用途は今のように投げるのだろう、髑髏面を被った男の仕種には少しの淀みもなかった。
「くっ!」
 腕を剣が刺さったまま放置し、バゼットは天井を見上げる。もう、さっきいた場所にはあの目立つ髑髏は浮かんでいない。気配はまた完全に消えていた。
 捜そうにも痛みで息が荒くなり、どうしても集中が持続できない。死ぬほどではないが、放置しておいていい怪我でもないだろう。
 しかし、今の状態では治療することも出来ない。痛みが増す左腕を苦々しく思いながら、バゼットは悔しそうに歯噛みした。
 負けるなどとは死ぬ瞬間まで認めない。押されているのなら、罠をかけているんだと嘯く。そういう考えを基にしているのが、バゼットという人間である。しかしそれでも、最強ではないにしても、あの男が手強い敵だということは認めなければならないようだった。
 あの気配遮断能力は本当のプロフェッショナルにしかできない業だろう。あれほど厄介なものはない。死なない身体でも持っていれば別だが、一瞬の隙が生死を分ける戦いで、あの能力はその一瞬を稼ぎ出すだけことが可能なスキルだ。
 あの時、あの男が声をかけなければ、三本のダークはバゼットの急所を抉り命を奪われていただろう。思い返すと、冷や汗が少し吹き出た。少しとはいえ、油断していたことが今更ながらに悔やまれた。
 ただ、あの髑髏は彼女を殺すつもりはないらしい。最終的には殺すのだろうが、そこまでの過程に彼なりの楽しみ方があるのだろう。その証拠に、髑髏面の窪んだ眼窩の奥からバゼットに向かって注がれた視線には、隠し切れない好色さと弱いものを(なぶ)るのが好きな人間の持つ残虐さが秘められていた。
 ――ひゅん、と唐突に風が切り裂かれる音がした。左上方から三本の刃物が襲い掛かってくる。
 かすかにスライドさせた眼球から得られる視界に、糸屑ほどの異変が映った。
 一本は足に向かって、――かわせる。
 もう一本は腹、――これもかわせる。
 最後は喉、――これは無理だ。瞬きする暇もなく喉を突き破り、血が噴き出るだろう。死のイメージに吐き気を覚えながら、バゼットは動いた。
 かわすことができないのなら、弾けばいい。バゼットは懐からナイフを抜き取った。そして、二本のダークをかわしきり、確実に死の鎌を弾き飛ばした。刃物を扱うのは得手ではないが、この程度の芸当はなんなくこなすしかない。
「そう、そうやって精々愉しませてくれよ。まだ先は長いぜ」
 ――どこだ。どこにいる!?
 声は乱れなくバゼットの所に届いたが、どこから発せられたのかは皆目見当がつかなかった。声は、柱という鏡に跳ね返され、その跳ね返された声がまた柱に弾かれることによって、反響して彼女の耳を強く打った。
 回答の見えない疑問の返礼にダークが飛んで来る。かすかに身体をずらし、同じようにナイフで弾く。飛んできた方向に目を向けるが、やはりなにもいない。
 ――くそっ、嬲って愉しんでるのか。
 薄暗い部屋の中に、目が眩む明るさを孕んでいる火花が幾度も散った。松明を受けてわずかに光る薄刃のナイフが、飛来する黒き刃を叩き落していく。見慣れると単調な作業のようであるが、薄氷の上を歩む緊張感と痛みで散ろうとする集中力を操るという難行の上に成り立っていた。
 それはどこか魔術の鍛錬に通ずるところがあるように思われた。こんな状況でなければ、苦笑していたかもしれない。
 しかし、限界は確実に近づきつつあった。どこの世界に終わりがない綱渡りを続けることの出来る人間がいるだろうか。
「はは――」
 突如聞こえる筈のない声が耳元で囁かれ、バゼットは心底肝を冷やした。今、右から飛んできたダークを弾いたというのに、鼻を鳴らしたように響いたくぐもった笑い声は左の耳から聞こえてきたのだ。
 バゼットはその方向を見ることなく、ワンアクション省略し、飛び下がりながら声が聞こえていた場所に正対した。
 そこには、やはり髑髏が浮いていた。
 けれど、彼女にそんなものを眺めている余裕はなかった。彼女の正面、男の持っている切れ味の悪そうな錆びた剣が、唐竹割りに振り下ろされていたからだ。
 ――今の場所では避けきれない。
 一瞬でそう判断したバゼットは、後ろへ倒れこむようにして剣閃をかわそうとした。背中から倒れこんだ彼女の頭が割られることはなかった。しかし、男の剣は、彼女の数本の前髪と頭を守るよう掲げられていた左腕を断ち切った。
 切り飛ばされた自らの腕が弧を描いて地面へ落ちる様を、バゼットは確かに目に焼きつけた。
 それは、二度目の欠損、欠落――喪失。
 体を蝕んでいた痛みが、刹那の()に怒りへ、そして憎しみへと変換された。起き上がりこぼしの要領で跳ね上がり、立ち直った彼女は、憎悪の眼差しを不気味の権化ともいえる男に向けた。
 その呪い殺されそうな視線を真正面から受けてなお、男は笑みを崩さない。どちらかと言えば、喜色を強めた気配がある。
「いい目をしてるな。殺し甲斐のある女だ」
 男にとっては上質の口説き文句と言っても差し支えない言葉を発したのと同時に、彼のまとっていた空気が凄絶なものへと変貌した。生きているという事実が、バゼットを男の好敵手という立場に押し上げたのだ。有り難くない展開だった。
 乳白色の髑髏面の奥でぎらついている瞳から隠しきれない愉悦が滲み出て、そのブラックホールのような虚無感を湛えている窪みが弓状にしなり返っている。
 より不気味に変貌していく男に、流石のバゼットも総毛が立ち、知らぬ間に数歩後ずさっていた。
 体が後ろへとスライドしたせいで、視界が広がる。面を睨みつけていたバゼットは男の体全体を目に収めることになった。体全体の動きに注意しながらも、首から下へと視線を動かした彼女は、
「あっ!!」
 と、驚きに満ちた叫び声を上げた。
 それもその筈、男の左腕は世にも奇妙な形状をしていたのだ。それはだらんと垂れた鞭のようでもあり、黒く染め抜かれたしなやかな絹のようにも見えた。その上、一メートル七〇センチメートルは下らない身長をしているというのに、その鞭のように伸びた腕は、地面に落ちてなお軽くとぐろを巻いていたのだ。
 なんという奇怪さ、嫌悪をもよおさずにはいられない形状だろうか。しかし、それでも腕は腕なのであった。肘もなくすとんと伸びている先には、しっかりと五本の指が生えているのだ。そして、なにかをつかもうと動いている。
 その手に首をむんずとつかまれるのではないか――と幻視したバゼットは音を立てて唾を飲み下した。
 先の死角からの投擲もこの奇怪な腕を使用したに違いない。乱立する大理石の柱に腕を巻きつけダークを放つ間に、彼の体は左腕とは反対側――つまり、注意が散漫になる地点へと滑り込んでいたのだろう。バゼットが不意をうたれたのもしょうがない。こんな攻撃方法を誰が予想できるだろうか。
「嬲るのもいい。縊り殺すのも楽しみだ。これがどうせ最後の遊戯(殺し合い)だ。楽しまなきゃ損だ」
 男の現実離れした言葉が空虚に響いた。
 生け贄にされた羊のような気分を味わいながら、バゼットはもう数歩後ずさり、太い柱に背を預けた。傷ついていない右腕で、肘から先がない左腕を触る。
 断ち切られたことは断ち切られたらしいが、どうやらなまくらだったらしく、物体だけしか断ち切られておらず、切り口は雑だった。
 腕が動くのを確認したバゼットは、自分がとるべき行動を一瞬で考え、それに綻びがないか何度も頭で反芻した。その戦法は明らかに――。
「――休憩は終わりだ!」
 思考は中途で隔絶された。五度目の再考はなされることなく、男の声と体がこちらに向かってくるのが聞こえ、見えた。
 黒タイツは、残像をまとい目にも留まらぬ速さで駆けてくる。床を踏みしめる音はかすかにずれているだけだった。なんという速度であろう。
 常人にはわからないだろうが、バゼットには男の姿が見えていた。しかし、傷つき果てた体でなにができるだろうか。左腕はもう切れ飛び、切断面から床に滴り落ちた血は僅かに跡を残し消えている。
 右腕を後ろに回して、ただ突っ立っているようにしか見えないその姿は、死に体としか思えなかった。彼女もとうとう諦めたのだろうか……。
 男もそんな風に思ったのだろう。小さく舌打ちした。
「つまらねえ」
 だからといって、突進を止めるような人間ではなかった。男はさらに速度を増し、バゼットに向かって一直線。そして、いつの間にか普通の形状に戻っていた左腕を彼女の顔面へと振るった。
 ばきり、と鈍い音がした。骨が砕ける音とよく似たソレは、大理石が砕け、ひびが入った音であった。
 間一髪――バゼットはかわしていたのだ。床に座り込むようにして体全体を地面へ落として。
 ……トレードマークである帽子だけが、男の拳と割れた大理石柱に挟まれてその場所に彼女の頭部があったことを証明していた。
「中途半端な悪あがきを!!」
 柱にめり込んだだけの己の腕を見つめ、脳を磨り潰す快楽を想像していた男は激昂した。指が折れたのかもしれない。男の表情は喜色ではなく、痛みと屈辱から怒りに染められていた。
 しかし、男の言葉は正しかった。渾身の一撃を避けたとはいえ、柱に全体重を預け立ち上がってもいないその姿勢では、次の攻撃を確実に食らってしまうだろう。
 柱からめり込んだ腕を抜き取った男は、眼下で俯いているバゼットを見下ろし、口の端をつり上げた。今度こそ磐石の勝利を確信し、腕を振り上げる。
 風圧でも感じたのだろうか、バゼットは俯いていた顔を上に向けた。腕を振り下ろそうとしていた男は、絶望に歪んでいるに違いない表情を脳裏に灼きつけようと彼女の顔を凝視しようとした。
 しかし、彼の予想は一八〇度間違っていた。バゼット・フラガ・マクレミッツという女は、否、人間はたとえ死に際になろうと笑える奴なのだ。そして、最後まで――死が訪れる時まで諦めようとはしない。
 目を瞑ったまま不敵に嗤った彼女は、かすかに口を開き誰にも聞き取れない小さな声でつぶやいた。
「“Lor()”」
「ぐわぁ――!」
 変化は刹那のようであり、また永遠とも思われた。
 不意を突かれて狼狽する男の声は、視界どころか部屋中を埋め尽くした光の海に掻き消された。
 サングラスをかけた人間がいれば見えたかもしれない――ひびの入った大理石柱に“1”を左右反対に描いたような記号が血文字で描かれているところを。目も眩む光はその文字から放たれていた。
 ――ルーン魔術であった。彼女はルーンを使う魔女だったのだ。
 光の奔流は、腕を振り下ろそうとしていた視界を奪い去った。命を刈り取る筈だった腕で目を隠し、男はよろよろと数歩後ずさる。そのまま殴ればよかったものを、彼は予想もしていなかった反撃のため、完全に前後を見失い、なにをするべきなのかわからなくなっていたのだ。
 そんな隙をバゼットが見過ごす筈がない。光のせいで目が見えないという条件は一緒であるが、不意を突かれたのとそうではない差はかなり大きかった。
 目を瞑ったまま相手の気配を敏感に感じ取った彼女は、無事な右手を土台にして倒立した。そして、右足を大きく回し男の左側頭部を強く蹴りつけた。
「が、はっ――!」
 斜め上へと飛ぶように力を込められたキックは見事に決まり、男は右へと飛ぼうとしていた。しかし、そう簡単に逃げられはしなかった。
 続けて、左足が右側頭部に決まったのだ。そして、すぐにまた右足がしなり叩き込まれた。
 その光景はまるで人間で作られたメトロノームを見ているようであった。残像が移るほどの高速で叩き込まれている両足だったが、その速度は一部の狂いもなく一定で正確にテンポを測っていた。
 その繰り返しが何度続いただろうか。少なくとも、往復十五回は続けられていた。ここまで幾度も頭部に蹴りを叩き込まれて生きている人間がいる筈がない。
 そう確信したバゼットはフィニッシュに鳩尾へと蹴りを食らわせようと――。
「なっ!?」
 鳩尾へと吸い込まれようとしていた右足は足首をつかまれて止まった。即座にカバーしようとした左足もつかまれ、バゼットは宙に持ち上げられてしまった。
「はは、ははははははははは。やるじゃねえか」
 頭蓋の骨を粉々に叩き割られながら、男は生きていたのだ。頭部から飛沫のように血を吹き出し、不気味な笑い声を高々に上げながら、彼はしっかり大地を踏みしめて立っている。なんというしぶとさ、並外れた生命力の持ち主であろうか。
「この傷じゃ、流石の俺も長くない。さっさと死んでもらうしかないな」
 そう言うと、男はバゼットの体を片手で振り回し始めた。男が片手であるのと二メートル近い高さでなされていことを除けば、それはジャイアントスイングそのものだった。
 段々と回転する速さが増していくのを風の抵抗で感じながら、バゼットは頭を抱え丸まった。少しでも衝撃を和らげなければならない。
「そらっ!」
 掛け声と共に、バゼットの体は宙を滑空することになった。舞うのではなく、それは文字通り滑空であった。風を切る心地よさに恐怖感を覚えて、彼女はゼロコンマ何秒後の衝撃に身震いした。
「ぐぅ、つっっ!!」
 痛みを超えたあまりの衝撃にバゼットは声を出すことが出来なかった。体中の骨が折れる音を聞きながら、彼女は地面に落ちた。全ての酸素が肺から強制的に排出されぜえぜえと喘ぐ。息を吸ったり吐いたりする度に全身が軋み、灼けるような痛みが襲ってきた。
 霞む視界の中、数分前に切り離されたばかりの左手が転がっていた。それを見つめていると、足音が徐々に近づいてきて目前で止まり、次の瞬間首をむんずとつかまれ持ち上げられていた。
 あの左腕であった。
「さっきはああ言ったが、やはりすぐ死ぬのはおもしろくない。ゆっくりと縊り殺してやろう」
 天井を見上げさせられたバゼットは、徐々に喉を絞り始められる。濡れた手拭いを顔の上に置かれるような果てしない息苦しさがそこには待っているのだろう。
 マゾヒストじゃないんだから、冗談じゃない! 酸欠になりかけている脳でそれだけを考え、バゼットは持てる力で抗った。両足を無様に動かし蹴りつけようとし、腕を激しく動かした。
 ――無駄であった。女一人を片手で振り回すことの出来る膂力を持つ男に叶う理屈は用意されていなかった。
 とうとう観念したのだろうか、それとももう四肢を動かす力も残されていないのか。バゼットは首を折り、体を藁人形のようにぐったりとさせた。
 そんな断末魔さえ上げることの出来ない彼女の今わの際を楽しそうに眺めていた男であったが、何度も見てきただけに数秒で飽きてしまった。そうなればもう殺すだけだ。
 男は頚骨を折ろうと左腕にぐぐっと力を込めた。
 すると、

 ――ぽきり、という呆気ない音を立てて、黒づくめの男の体が(・・・・・・・・・)地に倒れ伏せた。


 いったいなにが起こったのだろうか。つい数瞬前までは勝利を確信していた男を見下ろしながら、バゼットは己の両足で――よろけてはいたものの――しっかりと立っていた。その姿には弱々しさこそあったが、あの人形のような無抵抗さは見られない。
 どんな奇蹟が起きて彼女を窮地から救ったのだろう。そして、あの情けない音の正体はなんだったのだろうか。
 その答えは、男の首筋に残されていた。
 眼下の光景は、明らかに異常だった。なにも知らない人間が見たのなら化かされていると思い、すぐにその場を立ち去ってしまうだろう。
 なんと、虚空から腕が生えて男の首に絡みついているではないか。それも彼の首に指をめり込ませていたのは、あの切り離されて動く筈のないバゼットの左腕だった。
 あの呆気なかった音はバゼットではなく、男の頚骨が折れた音だったのだろう。そのことを証明するように、男の首は指が食い込んでいるところで捻れ曲がっていた。凄まじいまでの怪力までも示している。
「アオザキから言われた時には余計なことをと思ったが、まさか本当に役に立つとは……な。霊体接続式義手、高い金を払った価値があった」
 バゼットがかがむと、まるで生きているように手が動き出し、もとあった場所にきちっと接続された。否、物理的に切断されたとしてもちゃんとつながっていられるように設計されている義手なのだから、それはただ元の場所に戻ったというだけのことだった。
 この世にも奇妙な義手を作成した人間の名を、蒼崎橙子という。バゼットの友人であり、人形作りの第一人者であり、現在魔術協会から封印指定を受けている人物である。
 八年前、バゼットは彼女との交渉の末、金銭と交わしたある約束とを引き換えにこの精巧な義手を手に入れた。
 金はもう払い終わっているが、約束はいまだ破られず続いている。おそらくこの先も半永久的に続いていくことだろう。
 その約束とは、“蒼崎橙子のことを魔術協会に一切漏らさない”ことである。封印指定を受けているとはいえ、一応友人である――バゼットは交渉の席で間を置くことなくうなずいた。しかし、交渉が長引くなら、その材料をテーブルに乗せるつもりだったのだから、酷い友人ではあるのだが……。
 そんな話し合いのため、バゼットは協会との接触を必要最低限に抑えることになった。行方不明の期間――つまり、蒼崎の工房に滞在していた時のことを話せないためである。魔術師たちの話題に時折上る謎の答えはこういうことであった。
「面倒を見てやりたい……いや、面倒を見てやらなきゃならない奴に捕まっちまったんだろうなぁ、あいつも」
 地面に落ちていた帽子を深く被り直し、バゼットは口元だけを吊り上げた。三日月形になっているだろう瞳は見えない。
 目を瞑りながら、出口に向かって歩く。浅葱色の着物を着た少女と全身を黒でコーディネートした青年の姿が、不意に脳裏に浮かんだ。
 その映像が一瞬で消え去った。大理石柱に触れている手が小刻みに揺れている。息も荒い。薄氷の上を歩ききったような勝利に酔い、気分はいいけれども、身体は問答無用に痛みを訴えていた。もうこの先戦えそうにない。
 それでも、なんとか扉まではたどり着いた。入ってきたアーチとは違い、出口のドアは樫材で作られているがっしりとしたものだった。苦痛を奥歯でかみ殺しながらドアノブに手をかける。扉を開ける途中で、バゼットは小さな違和感を覚えた。石壁に木の扉が埋め込まれていることに、アシカの群れに一頭だけ紛れ込んでいるオットセイを見つけたときのようなかすかな面白みがあったからだろう。
 ――バゼットは部屋を出た。
 長方形に切り取られた人工のジャングルに残されたのは、爆ぜて燃えさかる多くの松明と部屋の中央に転がっている白濁した髑髏面だけだ。もう男の身体は消えて無くなっている。
 揺らめき炎を立ち上げていた松明が、入り口の側から次々に消えていく。その様は、照明をスイッチで消すのと同じで容赦というものがない。当然、名残などある筈もない。
 うっすらと照らされていた髑髏が闇に喰われていく。その消え方は、闇を友として生きてきた暗殺者にとって、最も相応しい退場の方法であった。





>>> Next Answer In the case of him


 脱稿 2004/09/29 01:16:15
 改稿 2004/10/02 14:45:58



 後書き
 遅れてしまった言い訳はしません。本当に申し訳ありませんでした。今度はこれほどまでには遅くはならないと思います。信用はないでしょうが、できるだけがんばりますのでこれからもよろしくお願いいたします。
 では、次回は彼の出番です。またお逢いしましょう。

 P.S

 件の裏ページですが、いまだ載せる作品が出来ていませんで、放置プレイになっています。これが完結するまではこのままになりそうですので、それでもよければこちらまでメールをくださいませ。






     名前(必須)
メールアドレス(任意)
ご意見。ご感想。 何でも良いですから送ってくださいね。