Fate/stay another
Chapter 1 Women's passion
著 南修一
1 日本家屋に洋風お嬢様!?
他の地域よりも比較的温かいとされている冬木市でも寒いものは寒い。昼ご飯の片付けを早く済ませた衛宮士郎は、湯気の立ち上る湯飲みをカイロにしながら、炬燵に足を突っ込んでいた。
今日は土曜日である。一月も半ばが過ぎ、ようやく正月気分が抜けたとはいえ、休みとなればだらけてしまう。人の目でもあればしゃんとするかもしれないが、"自称保護者"こと藤村大河も、"癒し系妹分"――間桐桜も朝から弓道部の活動で近くにはいない。ある筈の予定をサボタージュする条件はしっかり整っていた。
「――あ、もうこんな時間か」
屋敷中に、鈍く大きな鐘の音が三つ鳴り響いた。士郎は呆としている頭を上げ、頭上の時計を見つめる。
――午後も三時間が過ぎたようだった。いつもならばそろそろ夕食の買い物に行かなければいけない時間である。一旦腰を上げた士郎だったが、なにか思い出したのかすぐに炬燵へと足を戻した。
「はぁ」と溜息を吐き、両手で湯飲みを抱えながらつぶやく。
「夕食は桜の当番だったなぁ、そういえば……」
どうやらついさっきの溜息は、自分の暇さ加減に呆れていたらしい。これで夕食までの数時間、士郎にはなにもすることがなくなってしまった。無趣味ということはこういう時に困る。士郎はまた虚ろな瞳で天井を見つめた。
――その時だった。時計の音とは違う、ガタガタという玄関の戸が揺れる音がしたのは。
音を立てているのが身内でないことは確かだった。大河も桜もこの家の鍵を持っているからだ。
ならば、友人だろうか。
――それもない。士郎には友人はあまりおらず、唯一訊ねて来る可能性がある柳洞一成も住んでいる場所が遠いせいで、訪ねて来る場合はまず電話がある。不在であったり、行き違いになってしまえば、尋常ではない時間のロスがあるからである。
――誰が訊ねて来たんだろうか?
士郎は首を傾げながら立ち上がった。居間から廊下に出る。肌を刺す寒さが彼の身体を苛んだ。さっきまでいた部屋は、炬燵の上にガスヒーターが点いていたのだ。どちらかといえば、暖かかったぐらいだった。両腕を抱きしめながら、士郎は小走りで玄関に向かう。
「はいはい、今開けますからね」
摺り硝子の向こう側の人影に声をかけながら、スリッパを履く。呼び声はしっかり届いたのか、戸を揺すっていた音が止んだ。
「はい、どなたです――か?」
戸をあけた士郎は、目の前に立っていた人間を見て言葉を失くした。
純和風の権化ともいえる日本家屋の玄関に、ファンタジィの世界から脱け出してきたかのような金髪の美女が、佇んでいたのだ。彼女は、派手ではないけれど、――間違いなく――高級そうなブラウンのロングコートを纏い、太陽の光が乱反射するほど艶やかな金色の髪を腰まで垂らしていた。肌は陶磁器のように滑らかで、深山に降り積もった雪みたいに無垢で白い。目は大きく切れ長で、円らで蒼い瞳は何者にも負けない意志の強さと凛とした美しさを誇っていた。動揺している士郎にはそこまでしかわからなかったが、厚めのコートの奥に隠されていた身体は、少女の清純さと女の艶かしさを兼ね備えていた。
――その上、
「あなた、シロウですか――?」
知っているどころか会ったこともない筈の女性に、可憐な声で自分の名前を呼ばれ士郎は心底驚いた。思わずよろよろと後ずさり、手の甲で目を何度も擦った。
――夢じゃないよな? ホントに寒いし。
もしや、ということもあり、士郎は頬を抓ってみた。――普通に痛かった。
「なにをやっていますの? もしかして、シロウではないんですか?」
頬を抓るのをやめ、視線を前に戻すと、少しばつが悪そうな女性と目があった。
「いや、俺は君の言うとおり衛宮士郎だけど…」
不安そうだった女の子の表情がぱっと華やいだ。その意外と子供っぽい仕種に、士郎は
既知感を感じた。
――俺、この子のこと……知ってるのか?
まだしっかりとしたことは思い出せなかったが、士郎は目の前で喜んでいる女性の顔を見たことがあるような気がしてきた。ぼんやりと脳裏に残像が浮かぶ。今のような完成された美ではなく、可憐な可愛らしさが大勢を占めている顔が現れてきた。
けれど、
「――よかった! 本当にシロウなのですね。お久しぶりです」
表出しかけていた残像が全て吹き飛んだ。
安堵したのか、瞳を潤ませた女性が士郎に抱きついたのだ。最近、女性だということを感じさせるようになってきた桜を見るだけで心落ち着かない彼が、その刺激に耐えられよう筈もない。皮膚から伝わる柔らかさ、鼻腔から感じられる女性特有の甘い匂い。士郎が身体を固まらせるには充分過ぎた。
言葉を奪われ顔をこれ以上ないほど赤く染めながら、士郎は胸の中にいる美女を見た。すると、偶然ではあったが女性も士郎を見上げた。
――天啓のように、士郎の頭を記憶が掠めて行った。朧だった映像がはっきりとした形を取る。記憶の蔵も鍵が開いてしまえば、取り込むことは簡単だ。知らず、士郎は言葉をつぶやいていた。
「君は、ル――ヴィアなのか?」
「もしかして、シロウはわたくしのことを忘れていたのですか」
「わ、忘れてたわけないだろ。ただ予想以上に綺麗になりすぎて、わからなかっただけだ」
聞き苦しい言いわけである。額に汗を滲ませていては説得力など微塵もない。そのことをルヴィアと呼ばれた女性ははっきり認識しているのか。口を尖らせ、心持ち頬を膨らませながら、目の前の失礼な男を睨みつけた。
「わたくしは一日もシロウのことを忘れたことなんてございませんのに、なんて酷い男なのかしら」
「わ、悪かったよ。謝るから、許してくれ」
今更だが、ルヴィアの機嫌を損ねたことに気付き、士郎はぺこぺこと頭を下げた。顔の前で両手を合わせ、何度も「ごめん」という言葉を繰り返している。
「そんなに悪いと思っているなら、早く家に迎え入れてくださらない? 流石に寒いですわ」
「あ、そうだな。それじゃ、とりあえず、入ってくれよ。お茶ぐらいご馳走するから。色々聞きたいこともあるし」
一歩後ろに下がった士郎は、ルヴィアを迎え入れた。来客用のスリッパを出す。
ヒールを脱ぎ、スリッパに履き替えたルヴィアは、廊下を進む前に振り返った。
「ねえ、シロウ――」
「なにさ?」
「忘れられていたのは悲しかったですけど、思い出してくださったことは本当に嬉しかったですわ」
極上の笑みを残し、ルヴィアは今度こそ廊下を進んでいく。玄関には士郎だけが取り残された。
「綺麗過ぎるってのもホント困るな。心臓に悪いよ、まったく」
赤くなった頬を人差し指で掻きながら、士郎はぽつりとつぶやいた。彼は耳まで真っ赤に染め上げている。寒い筈なのに熱い。開け放たれた玄関から吹き込んでくる寒風の冷たさが、妙に心地よいと感じた士郎だった。
思い返せば、この時から彼の運命を変える事件は始まっていたのだろう。聖杯を巡る戦争における様々な人々との邂逅。ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトと再会したことから、衛宮士郎の生涯で一番長い一ヶ月は幕を開けた。
2 混乱 錯乱 冷たい視線
太陽が山の向こうに姿を消そうとしている夕方――買い物袋を両手に持った間桐桜は、衛宮邸の玄関を開けた。そして、その場で十秒ほど待った後、困惑した表情で首を傾げた。
――あれ? 先輩いないのかしら。
口を大きく開けて、見ようによっては間抜けに見える表情をしながら、桜はまだ立ち尽くしている。玄関から一直線に奥まで伸びている廊下をじっと見つめて肌を刺すような寒さを微動だにしないその姿は、寂しく儚げだった。
呆けた表情のまま視線を下げた桜は、そこに士郎の靴を発見した。なんの飾り気もない白のスニーカーである。かなり履き潰しているせいか、かなりくたびれていた。
そろそろ寿命が迫ってきている運動靴を視認した桜は、一層寂しげに背中を煤けさせた。買い物袋を持った桜が訪ねて来たというのに、士郎が迎えに来てくれないなんて初めてだったからだ。衛宮士郎を心の底から慕っている彼女からしてみれば、たとえ玄関から居間までの数十秒間といえども、幸福のひと時である。重いだろうと心配して袋を持ってくれる瞬間に、わずかに触れる指と指――極上の羽毛布団と引き換えにしても構わない一瞬の邂逅がなくなったのだから、桜の気持ちは推して知るべしだ。
そのまま衛宮邸から走り去りたいような気分に陥った桜だったが、ふとある思いに至った。もしかしたら、先輩は眠ってるんじゃないかしら――。
それは当たっている、ような気がした。今更だったが、桜はようやく冬の寒さを思い出し、炬燵の思わず弛緩してしまう心地よさを思い出した。その上、今日は夜は冷え込むと朝のニュースで言っていたから、そういった機微に聡い士郎ならいつもは使わないガスヒーターで部屋を暖めているかもしれない。それならば、居間は布団の中のような状態になっているだろう、と桜は考えた。この間、わずか一,八秒――一学年上にいるアイドルにも負けない計算速度である。矢張り遺伝子はちゃんと伝わっている。
――ふふ、先輩ったら、お昼寝しちゃってるんだ。起こしてあげなきゃ。
さっきまでの世界の不幸を一身に背負ってますみたいな表情はどこへやら。桜はにへらと顔を弛ませて、衛宮邸に足を踏み入れた。彼女の頭の中では妄想が渦巻いている。その内の九割は考えているだけで実行できないのだが、残った一割は破棄されるであろうものに比べれば、かなりソフトで実行される可能性がある。
――私からはたいしたことは出来ませんけど、先輩が求めるならなんでもやって見せます。ああ、こんなことになるならもっと可愛い下着にしてくればよかった。
名前に似合っている桃色思考である。そして、桃色のフィルタは視界にもちゃんとかけられていた。アップダウンの激しい持ち主に疲れた脳は、ある情報を恣意的に改竄した。内心とは正比例している楚々とした仕種で揃えられた桜の靴の隣、
彼女が
見知らぬ(高級そうな女物の靴が同じように綺麗に並べられていた。
桜は靴下のまま廊下をゆっくり進む。一歩進むごとに床が軋んだ。ぎい、となる音が、不自然なほど桜の心を刺激する。ああ、先輩待っててください。今、桜が行きます。
走り出しそうなほど高揚した気分を落ち着かせながら、桜は居間への戸に手をかけた。開いている左手で胸を押さえると、人生で一番激しく脈動しているような気がした。
よし、と覚悟を決めた桜は、微塵の躊躇もなく戸を開いた。
「――先輩!!」
桜を待っていたのは、部屋の中央にある炬燵で向き合っていた男女が目を丸くしてこちらを見ている光景だった。
桜は固まった。彼女の中で士郎が眠っているのは覆してはならない真実だった筈なのに、想い人は老人よろしく出涸らしの茶を啜っている。
「な、なんで先輩が起きてるんですか!?」
「そ、そりゃ起きてるさ。寝てないから……」
事態の急激な推移に、士郎は少しもついていけていない様子だ。目を大きく見開いたまま、当たり前のことを答えた。
士郎の顔を見つめる桜に、徐々に正気が戻ってくる。誰も知っている者などいないのだが、あんなことを考えたこと自体が恥ずかしいのだろう――桜は耳まで赤く染め、無茶苦茶なことを叫んだ。
「責任……先輩が責任取ってください!」
「ええぇぇ!!」
湯飲みを持ったまま、なぜか士郎は後ずさった。彼にしてみればなにがなんだかわからない状態である。しかし、そこは男の性なのだろう。"責任"という言葉に過剰に反応してしまったのだ。そんな行動に、無我夢中で叫んだ桜の中にいる"黒桜"がほくそえんだ。
――先輩が慌ててるのは、きっと身に覚えがあるのよ。こうなったら、既成事実も。
もう空想の世界である。悪魔ルックで小さくデフォルメされた桜が耳元で囁いた。
――それはいけません。愛というものはゆっくりふたりで育むものです。嘘で塗り固めても、いずれ崩れます。
今度は、"白桜"だ。もちろん、背中からは純白の羽が生えている。
両の耳から入ってくる論争に耳を傾けながら(といっても、黒い方の言葉しか聞いていないが)、桜は頬を手で挟みいやいやと首を大きく横に振った。桃色思考が復活したらしい。
――う、たしかにあなたの言うとおりです。このままでは先輩は一生振り向かないかもしれません。
――ふふふ、そうでしょう。この際、押し切っちゃえばいいんです。
宿主を放っておきながら、天使と悪魔の会話は続いていた。確実に押されつつあるのは天使である。悪魔による経験に基づいた未来予測は、ぐらぐらと天使の良識を崩しつつあった。
――体から始まる愛もあるのでしょうか……?
目の前に浮かんでいる悪魔から目をそらしながら、
桜の良心(はぽつりとつぶやいた。
――あります! 当たり前です。私の超絶テクニックと艶かしい身体を使えば、先輩は虜になります。愛と肉欲の日々はすぐそこです。
拳を強く握り、天高く突き上げた
桜の欲望(は、力一杯宣言した。天使に見えないよう顔を少し横に向け、にやりと邪悪に笑いながら。
こうして、桜脳内会議はあっけなく幕を下ろした。欲望側の圧勝である。純白の白い翼と衣を持っていた天使は、一瞬にしてそれらを黒く染めた。堕ちたらしい。
右に悪魔、左に堕天使を携え、桜はじりじりと後ずさっている士郎に一息で詰め寄った。大黒柱を背にして、桜を見上げ息を呑む士郎。彼の瞳には、肉食動物を前にした草食動物のような鈍い光が灯っていた。――ぶっちゃけ、びびってた。
そんな士郎に、桜は容赦のない言葉を浴びせかける。
「先輩、脱いでください」
「…………なんでさ?」
もう彼としては異世界にいる気分である。目の前にいるのは朝分かれた可愛い後輩のはずなのに、微塵として意思の疎通ができない。さっきの「なんでさ」も固まること十秒、ようやっと漏れ出た言葉だった。
「おかしいぞ、桜。もしかして、どっかで頭打ったんじゃないだろうな。こんなところで、ふ――服を脱ぐなんて、絶対無理だ!?」
「先輩が脱げないなら、私が脱ぎます! というか、脱がせてください、お願いします」
「うわぁ、なに言ってるんだ!? やめろ、服に手をかけるんじゃない! お願いされてもそんなこと無理だ――」
士郎――大混乱である。すぐさま立ち上がった彼は、桜の腕を押さえた。
「――居間なんかで服脱いだら、寒いんだから風邪引いちゃうだろ」
なんとか服を脱がれることだけは阻止した士郎は、桜の顔を見つめた途端そそくさと後ろに下がった。しかし、そんなことを許す女ではない。きつく想い人の腕をつかんだ桜は、少し上背のある士郎を蕩けた表情で見返した。
「なら、先輩が暖めてください……」
場所が場所なら、男には堪らない台詞である。もしかしたら、士郎でさえも良心をノックアウトされ、彼女を押し倒したかもしれない。しかし、ここは居間である。なにも置いていない寝室とは違い、生活感が充満しているここの雰囲気では頑丈な士郎の心を討ち果たすことは出来なかった。
その上、士郎を焦らせているものがもう一つあった。それは確実に彼にそういう行動を取らせることを許していなかった。桜と同じほど恐ろしいものとは――。
――炬燵方面から、一対の絶対零度よりも冷たい視線が、彼らには向けられていた。
「――あなた、どなたなんですの?」
視線よりも冷ややかで凛々しい声が、桜と士郎の耳を打った。
3 静けさは思考時間
完全に置いてけぼりというシチュエーションに、ルヴィアは心底苛立っていた。
なんだというのだ状況は。さっきまで炬燵で暖まりながら士郎の淹れてくれたお茶を片手に楽しく歓談していたはずなのに、今は救いようのないほど出来の悪いC級映画を見せ付けられている気分だった。
なんの前触れもなく、突如乱入してきたこの女はいったい誰なんだろうか。奇天烈な言動と行動も考慮に値することだったが、目についたのは士郎への気安さだった。たしかに登場の仕方はおかしかったが、士郎は驚いているだけで彼女が現れたことについて少しの疑問も持っていないようだった。そして、女は買い物袋を持っていた。袋から覗いているのは、長ネギ――つまり、料理の材料である。それはいつもこうやって作りに来ているという証拠ではないのか。ならば、彼女は士郎の――。
ルヴィアは頭を振り、思考をカットした。それは許容できない。もしかしたら、雇いのメイドなのかもしれない。中に入ってみて再確認したが、この屋敷は中々大きい。掃除も大変だろう。掃除と料理のためだけに雇っているに違いない。それならば、あの品のない大きな胸と言動も――。
カット。カット。ルヴィアは思考が乱れていることを改めて確認した。いけない、いけない。士郎のことを考えると、つい乱れてしまう。
……シロウが料理を作らせているというなら、彼は料理が出来ないのだろうか。だったら、わたくしが作ってあげたら、喜ぶかもしれない。
テーブルに並んでいる豪華な食事。それを囲んでいる楽しそうな男女。不意に手が触れ合った二人は互いの顔を見つめあい――。
またもカット。ルヴィアは大きく横に顔を振りながら、自分が全くと言っていいほど料理を出来ないことを思い出した。目の前で錯乱している女性とは違い、静かな混乱である。
――はぁ、いけませんわ。少し乱されてますわね。
小さく溜息を吐き、ルヴィアは額に手を当て俯いた。士郎の近くにいると、どうしても常態から程遠く乱されてしまう。再会した時もそうだった。彼女にしてみれば、抱きつく気など毛頭なかったのだ。なのに、感極まって飛びつくようにして胸の中に入ってしまった。思い出すと顔が赤くなりそうだ。
「――なら、先輩が暖めてください……」
胸が波打つ言葉が聞こえ、ルヴィアは急いで顔を上げた。見ているだけであまり聞いていなかったが、さっきの言葉は異常である。第三者がいるというのに、このリヴィングでなにをしようというのだ!
彼女の上げた眼差しの先――蕩けた表情をしている女と顔だけでなく耳まで赤く染めた士郎が立っていた。
――なんなのですか、シロウ。そんな色情狂突っぱねてしまえばいいんです。
取り付く島もない意見だったが、それがルヴィアの思いだった。苛烈な視線の矛先が、異分子から士郎へと移る。嫌なら嫌と言えばいいではありませんか。どっちとも取れる態度を取っているから、図に乗られるんです。
沸々と、士郎への怒りが滾り始める。びくっと士郎が身体を震わせたような気がしたが、そんなことは無視だ。凍りついたかのように固まる居間で数十秒――ぶちん、そんななにかが切れた音がした。
「――あなた、どなたなんですの?」
宣戦布告をする冷たい声だった。ぎりり、とまるでブリキの人形のようにゆっくりこちらを向いた士郎とは反対に、女の方はルヴィアの感情を感じ取ったのだろう、すっと振り向き視線を交錯させた。
ぶつかる視線は火花を散らし、彼女たちの感情を如実に表していた。
――おんどれ、なにいきなり入ってきて、調子こいといのんじゃ!
――てめえこそ、うちの先輩となに茶しばいとんのじゃ、殺すぞ!
ああ、恐ろしきは女の情念、といったところか。士郎はもちろん置いてけぼりである。
「あなたがどんな方なのかは存じ上げませんが、私の名前は間桐桜といいます」
桜と名乗った女はルヴィアを見下げ、ルヴィアは炬燵に足を入れたまま桜を見上げる。少しもぶれることのない視線の交錯は、一層激しさを増していく。
「それで、あなたのお名前はなんと仰るんですか?」
戦闘の準備が整ったのか、桜も炬燵へと入った。ずれていた高度がしっかりとかち合う。
――どうして、こんなに寒いんだろ。これだったら、廊下の方が暖かかったよな。逃げちゃダメかな……ダメなんだろうな……。
消極的選択の末とはいえ、士郎は恐る恐るではあるが二人と同じく炬燵に入った。逃げないだけマシなのだが、背中を丸めびくびくしながら桜とルヴィアの顔を交互に見比べている態度は、浮気現場に奥さんに殴りこまれた後の男みたいで見苦しいことこの上ない。まあ、かなり恐ろしいことには間違いないので、責めることは酷かもしれないが。
「わたくしの名前ですか? ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトといいます。名乗っていただいたのに、こちらが名乗らないのはフェアじゃありませんわね、サクラさん」
――ひぃぃ、なんなんだよいったい!? どうして、名前を読んだだけで凍りついたような音がするんだ。
実際にそんな音が鳴ったわけではないのだが、士郎のシックスセンスは、たしかに居間の空気が凍りつく音を感じ取っていた。
互いに名前を名乗り、――こうして戦いのゴングは鳴った。
4 女の情念T
力の限り踏ん張っていた太陽も山の向こうに消え、辺りには闇の帳が落ちている。近くにある筈の庭も暗くなってしまえば、手の届かぬ異世界のようでなぜか遠くにあるようだった。そんな異世界から見えるのは、衛宮邸の居間に灯っている明るい光である。
小さな障子窓から覗いているのは、曖昧模糊とした三つの人影。ふたりが向き合って座り、もうひとりは窓に背を向けている格好だ。外から見れば、暖かな明かりと似て、会話も弾んで和やかそうな雰囲気である。あくまで、外から見ればだが――。
「サクラはシロウの後輩だったのですか」
「はい、もう一年近くこうやってお世話になってます」
顔をつき合わせて会話を始めて、早一時間。ただ目の前で桜とルヴィアが話しているだけだというのに、悪寒が止まらない自分に士郎は心の中で首を傾げた。
――もしかして、風邪でもひいたのか?
士郎の悩ましげな表情を無視して、表面上和やかな会話が続いていく。
「では、シロウがサクラのお料理の先生なのですか」
「ええ、先輩の和食はとっても美味しいんですよ」
士郎がそう考えるのは無理もなかった。目前で繰り広げられているのは、あくまで一般的な普通の会話である。いくら自分の身体は自分が一番よく理解できるとしても、これは明らかに異常だった。
それならばこんな炬燵の中に足を入れているのではなく、布団に横になった方がいいのだろうが、蛇に睨まれた蛙と同じで、士郎は異性ふたりの雰囲気に呑まれて完全に身動きが取れなくなっていた。正直、お茶を飲むだけで中々つらいのだ。どんな理由にしろ、この場から逃れるには些細なことでもいいからきっかけが欲しかった。
――そんな時である。彼の救世主、低く重厚な時計の音が六回鳴ったのは。士郎は俯いていた顔をぱっと上げて、居間の時計を見つめた。今だ、この瞬間しかない。この結界から逃れることが出来るのは!
「いやぁ、もうこんな時間かー。そろそろ藤ねえも帰ってくるし、ご飯作らないとな」
かなり情けなかった。彼の声は内心の動揺を示すかのように、完全に裏返っていた。それでも、この瞬間に命をかけているのか、士郎はゆっくりとではあるが立ち上がろうと中腰になった。
このままだったら行ける、と士郎は確信した。しかし、そうは問屋が卸さない。台所に向かおうとした士郎の背中に、桜のふんわりと優しい声がかけられる。
「先輩――」
「なんだ桜?」
ブリキ人形のような不自由な音を立てて振り返る士郎。彼に向けられているのは、言葉に負けず優しく柔和な笑顔。――なぜか、士郎の背中に今日一番の悪寒が走った。こ、殺される!?
「――喉が渇きました。ルヴィアさんだけにではなくて、わたしにもお茶を淹れてくれませんか? いつもの出涸らしじゃなくて、ルヴィアさんが飲んでいる最高級の玉露を」
「でも、桜。早くご飯を作らないとだな、ふ――」
かすかな抵抗。けれど、言葉は途中で打ち消され、
「先輩、お願いします」
変わらない笑顔で微笑みかけられた。
「は、はいぃぃ。わかりました、サクラサン」
ね、ね、捻じ切られる。かくかくと単調ながら素早い動きでうなずきながら、士郎はそんなことを思った。ナニがとは言わないが、ナニがとは。
上げようとしていた腰を再び戻し、士郎は机の上に置いてあるお盆を招き寄せた。お盆の上には、三つの裏返された湯飲みと、さっき桜が言ったとおり、いつもは姿を見せることのない緑茶の茶筒が載っている。久しぶりに逢ったからとはいえ、奮発して普段使わないお茶をご馳走したことを今更ながら後悔した。
一瞬の溜息の後、手元においてあった急須に、新しいお茶の葉を加えた。まだ前のお茶っ葉でも充分濃い味わいが楽しめそうだが、新しいものを入れなければ無事では済まないという確信が、士郎の思考を支配している。本能には逆らえなかった。
ポットから急須にお湯を注ぐ。主夫技能を持つ士郎からすれば耐え難いことなのだが、命には代えられない。蓋を閉めて、数秒蒸らす。ふたりからの視線が集中していることを感じながらも、いつも桜が使っている湯飲みに濃厚というか明らかに濃すぎるお茶を注いだ。これでナニを捻じ切られることはないだろう、士郎は少しだけ安堵した。
「美味しいです、先輩。やっぱり、いつもとは違いますねえ。同じ湯飲みでも違うので飲んでるみたいです」
――ええ! 嘘だろ、桜。
士郎の心の底からの叫びなど気にすることなく、桜は一息で熱いお茶を飲み干した。目を見開いてその様子を眺めていた士郎だったが、本当に美味しそうな表情をしているので、かすかに首を傾げた。あれ、ホントに上手いのか?
疑問を解決する手段は、すぐそばにある。
士郎は空になっていた自分の湯飲みにお茶を注いだ。ごくりと音を鳴らして唾を飲み込みながら、濁った沼のごとき様相を呈している狭い水面を見つめる。
心なしか、時々弾ける泡が、ファンタジー映画で見ることの出来るようなソレに思えた。立っていれば幸運だといわれる茶柱も四本、五本と立っていれば気味が悪かった。
――あははは、なんかテレビの罰ゲームみたいだな。
心の中で笑いながら、士郎は湯飲みを握った。そんな彼の葛藤はお構いなしに、やっぱり頭上で会話は続いている。
「よかったですわね、サクラ。シロウにお茶を淹れてもらえて」
「そんなことだったら、ルヴィアさんだってしてもらってるじゃないですか。……もう冷たくなってるみたいですけど」
「なら、わたくしも淹れなおしてもらおうかしら。新しいお茶の葉で」
「まだ新しいのを淹れたばかりじゃないですか、なにを言ってるんです。ルヴィアさんは。ふふふふふふふ」
「こんなものを飲める丈夫な喉をしておりませんの、わたくしは。フフフフフフフ」
電灯はちゃんと点いているというのに、まるで闇が侵入してきたかのような錯覚。女ふたりハイパー化である。こうなると、士郎は怯えている筈なのだが――
――これ、ホントに美味いのか?
見事に、グリーンティーに魅了されていた。黒の帳よりも緑の帳。第一級主夫技能を持つ彼にとっては、女同士の争いよりも目の前の異物に注意が向くのも当たり前――のような気がする。
湯飲みを割れんばかりに握り締めながら、士郎はついに決心した。飲むしかない。別にそんな必要性は微塵もないけど、これを飲まなければいい
人間(にはなれないに違いない。
涙ぐましい決心である。悲しいことに、誰も注目してはいないが。
もう一度緑の水面を凝視した後、士郎は幾本もの茶柱ごと緑茶を一息に飲み干した。そして、
「■■■■■■――!!」
――当然、悶絶した。
机上で音を立てて転がる湯飲み。幸いなことに、飲み干したおかげで汚れないで済んでいる。で、当の士郎はというと、
炬燵から飛び出して、居間の畳の上を生涯一番の激しさで転がり回っていた。両手で喉を掻き毟りながら。
「熱い! 苦いというよりも熱い! 苦熱い!!」
錯乱して魂から叫んでいる彼には悪いが、当たり前のことである。熱いと心準備をしていても熱いのが普通だ。士郎は味ばかりに目がいって、熱さなど考慮外だったのだから尚更なのだろう。なら、桜はどうして大丈夫なのだろうか……?
――み、水をくれ。
砂漠で遭難した人間のような思考だが、彼にとっては死活問題である。立ち上がればいいのに、なぜか匍匐前進をしている。もしかして、立つという動作を忘れているのだろうか。
それでも、ゆっくりとではあるが台所へと進んでゆく。一メートル、二メートル。時間をかけながらキッチンに近づいていく士郎の足首を、白く滑らかな手ががっしりと掴んだ。
「シロウ、サクラだけではなくて、わたくしにも新しくお茶を淹れて頂けませんか?」
「そ、そこに今淹れたお茶がありますよ、ルヴィアさん」
首だけ振り返った士郎はさっきと似たようなものを見た。微塵も崩れていない完璧な笑顔が、彼を迎えていた。
士郎の言葉に、ルヴィアは首を傾ける。人形のような可憐さが際立つ角度だ。無機質なパーツの中で眼だけが意思を滲ませている。その困惑気味だった瞳の色が、一瞬だけ苛烈なものに変化した。
士郎の足首が鈍い音を立てて圧迫される。
「る、ルヴィア、折れる、折れるって」
タップ、タップと必死に畳を叩く士郎。もちろん無視だ。
「わたくしにあんな不味いモノを飲ませる気ですか? あなたは」
うなずくことなどできよう筈がなかった。こんなつまらないことで病院に担ぎ込まれるなんてごめんである。みしみしと軋む足首が、士郎の口を開かせた。
「淹れなおします、淹れなおさせてください。だから、足首から手を離していただけませんでしょうか? ルヴィアさん」
「シロウならわかってくれると思いましたわ」
かすかな変化も見せない笑顔に、士郎は心底肝を冷やした。そこに浮かんでいるのはたしかにさっきまでと少しも変わらない笑顔の筈なのに、明らかに違って見えたからだ。
女って怖い、ちょっと遅すぎる感想を抱きながら顔を上げる士郎。その先には、
――悪魔がいた。
「ふふふ先輩ったら、それじゃわたしには不味いお茶を飲ませてたってことですか?」
いつの間に回りこんだのか、畳から四五度上げた視線の先――両の手を閉じたり開いたりしながら桜が立っていた。そのワキワキしていた手が士郎の顔面に伸ばされる。蛇に睨まれた蛙状態の士郎は、それががっちり自分の顔にロックオンされるまで呆と眺めていた。現実逃避である。
しかし、夢の世界は現実には勝てない。問答無用の痛みで、彼は見事に連れ戻された。
「あ、アイアンクロー!? い、いて! や、やめろ桜!?」
左手で後頭部まで押さえられた士郎は、もがきながらも逃げ出せないでいる。視界を遮る白い指の隙間から覗くのは、愛らしい後輩の能面のような無表情。
「質問に答えてくれません? ね、せ・ん・ぱ・い」
士郎は本気で死を覚悟した。頭蓋骨が軋む音を聞きながら、時間が粘着質になりつつある。アドレナリンの過剰分泌が開始され、ああ走馬灯が。一成、オマエ女だったのか!? 幻像が混じった。
「――サクラ、暴力で言うことを聞かせるのは賛成できませんわよ」
不意に、頭蓋へと込められていた力が緩んだ。どうやら脳漿を畳にぶちまけるような事態は遠退いたらしい。
「ルヴィアさん、おもしろいこと言いますね、ははは、おかしい。わたしは先輩とコミュニケーションを取ってるんです」
桜、おまえの伝達手段はアイアンクローなのか、と士郎は思った。が、その言葉は無理やり飲み込んだ。というか、声が出せなかったのだ。ちょうど彼の口は、桜の掌で防がれている。もし口を開けば、息があたったりしていやらしい感じだ。さすがはあの肉体を前にして欲望を抑えてきただけあって、抑制する能力は一級品である。
「シロウは不味いものを不味いと言っただけです、放しなさい。あなたも本当は美味しくなかったのでしょう?」
「そんなことありませんよ、ルヴィアさん――」
桜はどうやら本格的に相手をするらしく、士郎の顔から手を離した。解放された士郎はその場でうつ伏せになったまま、命というもののありがたさに感謝した。ああ、生きてるってなんて素晴らしいんだ。
「――先輩が淹れてくれたというだけでわたしは美味しかったんです」
「なっ――!」
「ルヴィアさんは、先輩のお茶なんか不味くて飲めないんですよね。もったいないなー」
嵐は吹き荒れ、止む気配はない。その中心地で横になっていた士郎は無言のまま、また匍匐全身で動き始めた。目的地は台所ではなく、部屋の隅である。そこで膝を抱えて蹲った彼は、ぶつぶつとなにかつぶやき始めた。
痴漢や変態などなんのその、いつも元気な藤村大河は、会議と書類の山をようやく片付け終え、夜も七時になろうとしていた頃、ようやく衛宮邸の敷居を跨いだ。口笛を吹きながらスリッパに履き替えるその姿はとても機嫌が良さそうだが、彼女は平時からこの調子である。
ぎぃ、と足元の床が音を鳴らした。その音は老朽化し始めている衛宮家では聞きなれた音だったけれど、大河は持ち前の野生の勘を発揮して自分の家――実家は隣だが――の異変を感じ取った。
――うん? なんか匂いが、……変だぞう。
きょろきょろと辺りを見回す大河。彼女が感じ取ったのは匂いなのだから、どこを見たって見つからないと思うが、彼女なりの理屈があるのだろう、多分。
「ま、どうでもいいか。今はご飯の方が大事だよぅ」
さっきまでの異変を
忘却(し、大河はまた歩き始めた。床が軋む音なんてもう気にしない。今は腹が膨れることの方が大事だった。
障子に手をかけた彼女はいつもどうり一気に開けた。大河が見たものは――。
大切な弟が、部屋の隅で世界の終わりが来るごとき落ち込んでいた姿だった。その横では凄まじき舌戦が繰り広げられたいたりするわけだが、そんなものは目に入ってない。
「うわぁ、どうしたの!?」
ここはお姉ちゃんパワーの見せ所である。それは大河も本能で悟っているのか。急に緊張してきたらしく、足と腕が同時に出ている。変な人形みたいでちょっと不気味だ。
傍らまで寄った彼女は、士郎がなにかつぶやいてるのがわかり、耳を近づけた。
「女怖い……女怖い……女怖い……女怖い」
「わぁぁん、士郎が壊れてるよー!」
大河がそう叫んだのも充分理解できることだった。下から覗いた士郎の顔には大きな隈が出来ていて、瞳は虚ろだったのだ。
その空虚な瞳が大河を捉える。彼女はそれを困惑しながら見返した。その時である。
「オンナコワイオンナコワイオンナコワイオンナコワイオンナコワイ――!!」
「ギャアアアアアアア!!」
もうホラーの世界だった。
衛宮士郎が正気を取り戻したのはそれから十五分後のことだった。狂気から立ち直った時、約半日分の記憶が飛んでいたのだが、それはまあ余談である。夕食が遅れに遅れたのは自明の理だった。
5 女の情念U
「へえ、じゃあ、ルヴィアちゃんは切嗣さんとも知り合いなんだ」
「ええ、八年前に会ったのが最後ですけれど、もう亡くなっていたのですね」
遅れに遅れた食事はついさっき終わったばかりだった。居間にある炬燵に入っているのは、客人であるルヴィアと働けと言ったところで働きはしない大河だけである。衛宮家の家事担当である息子とその後輩は仲良く台所で後片付けをしている。
時刻は先ほど九時を回ったところだ。熱いとも言える暖かいお茶で身体を温めながら、鐘が九回鳴る音を聞いたことをルヴィアは覚えている。しかし、今彼女ははっきり言ってそれどころではなかった。目の前にいる大河と話しているというのに、視線は落ち着くことなく一点に定まらず、気分も浮き足立っていた。
――もうシロウったら、肩がサクラと触れてます。
声をかけられる度に視線を話し相手の方に向けながらも、ルヴィアの神経は全てキッチンに向けられていた。姿が見えなければ見えないでそわそわするだろうが、見えないなら態度の取りようもあった。けれど、あれだけ言い争った桜が士郎に寄り添っているとなると気が気ではない。
完全に妄想の域を出ないのだが、こちらに背を向けている桜の顔が怪しく笑っているようにさえ思えてくる。実際のところ、桜は仕事となれば手が抜けない質であるし、そんな表情をしていれば士郎が引いているだろう。そんな雰囲気は一切ないのだから、ルヴィアの考えは取り越し苦労であった。
しかし、そんなことは聡明な彼女のことである。百も承知であるのは間違いないだろう。それでも気になってしまうのは、乙女の宿命だろうか。賢いといっても、解くことのできない命題はあるのだな、と思い知らされる瞬間だった。
「――ねえ、ルヴィアちゃん」
「た、タイガ、なにか仰いました?」
眼だけに神経が偏り、耳が留守になっていたルヴィアは、少し慌てながら眼差しを台所か正面に向けた。その先には、なぜか含み笑いをしている寄生型高校教師が、彼女の顔を覗き込んでいた。嫌な予感がする。ルヴィアは絡み合う視線に羞恥を覚え、少し目をそらした。
「もしかして、士郎のこと……好き?」
ぶ――――――――っ!?
見事な放物線を描き、緑茶が宙を待った。記録は、三メートル五十七センチ。世界記録かもしれない。
「な、なななななにを言うんですか!? 貴女は!」
手に抱えていた湯飲みを置きながら、ルヴィアは辺りを窺った。きょろきょろと部屋中を見回すが、目の前にいるぶしつけな女性以外には人影はない。台所のふたりにも気付かれていなかった。目の前の人間の口さえ塞げば、あんな淑女にあるまじき行動が他人に知られることはない。
ルヴィアは魔術を使用することも辞さない覚悟で正面に向き直った。大河はまだニヤニヤと笑っていた。
「ダメ元で言ってみたんだけど、当たっちゃった?」
「当たってなどいません。少し驚いただけです」
居住まいを正して、ルヴィアは大河を切れ長の目で睨みつけた。彼女自身は毅然とした態度で言っていたつもりだったが、ほんのりと頬だけでなく耳まで赤く染めてしまっていては説得力がない。大河のニヤニヤ笑いは、意地悪く増すばかりだった。
「シロウは大切な友人です。それ以上でも以下でもありません」
「へえ、ふぅーん、じゃあ士郎がどんな子と付き合ってても気にならないかぁ……」
思わせぶりな言葉である。実際、朴念仁の権化である士郎に浮いた話など一切ないのだが、そんなことをルヴィアが知っている筈もない。単にカマをかけられているのだが、内心焦りに焦っている彼女が気付くことはなかった。耳がぴくぴくと動き、情報を求めていた。
「ゆ、友人のことですから、参考までに聞いておきましょう。騙されていたりなどしては大変ですから。わたくしが話の場を設けたりする必要があるかもしれません、あくまでそういう可能性があるというだけですが」
ええ、ええとルヴィアは自分の言葉に何度もうなずいた。観客が自分以外にもひとりいることを除けば、見事な言い訳だった。
ルヴィアと大河が見つめあう中、テレビの音もしない居間に沈黙の帳が下りた。台所から聞こえる食器同士が当たる音だけが、唯一の騒音。そんな空間で、再び口火を切ったのは大河だった。
「――冗談でした。残念なことに、士郎にそんな相手はいません。お姉ちゃんとしては、彼女のひとりやふたり連れてきて欲しいんだけどね」
形だけの溜息を吐きながら話す大河は笑みを浮かべる。さっきまでの底の見えない警戒心を抱かせるようなものではなく、柔らかなしっとりとした笑顔だった。
「貴女はからかったのですか? わたくしを」
「うんにゃ、試してみただけ。お姉ちゃんの特権って奴かな。だって、ずぅーっと士郎のこと見てきたのに、知らない女の子に連れてかれちゃったら悔しいでしょ。わたしの直感は当たらずとも遠からずって感じだけど、ルヴィアちゃんみたいに可愛い子だったら、弟を任せてもいいけどね」
ふにゃと相好を崩し、大河は炬燵の上に倒れこんだ。それを見下ろしながら、ルヴィアは考えた。大河の言った言葉の意味を。自分の気持ちを。
「わたくしはシロウのことが好きではないかもしれません。好意は持ってますけれど――」
一旦言葉を切り、ルヴィアはお茶を呷るようにして飲んだ。喉がからからだった。
「――だって、わたくしは今のシロウのことを知りませんから。恋をするのはこれからです」
上目遣いでこちらを見つめている大河に、ルヴィアは微笑んだ。気品も湛えていたけれど、それは可愛い可憐な笑みだった。まるで、十五の少女が浮かべるような。
ようやく食事の後片付けが終わり、濡れた手をタオルで拭いながら居間に戻ると不思議な雰囲気が辺りに漂っていた。士郎は首だけ後ろに振り返り、同じように手を拭いている桜に目で"どうなってるんだ?"と訊ねたが、どうやら彼女もよくわからないらしく、目を丸くして首を傾けていた。
「藤ねえ、猫じゃないんだから、炬燵を抱え込むな。俺と桜が入れないだろ」
そんな雰囲気を散らすように、士郎は少し大きめの声で大河に声をかけた。が、彼の声に反応したのは姉ではなく。
「し、シロウ!? もう後片付けは終わったんですの?」
「ああ、そんなに時間がかかるもんじゃないし」
――なんで、そんなに焦ってるんだ?
軽い気持ちで声をかけたというのに、どこか鬼気迫る様子のルヴィアに士郎は少し引いた。身体が心持ち仰け反っている。
「先輩、立ってたら寒いですよ」
「――冷たいな、みんな」
仰け反ったまま固まっていた士郎はぼそりとつぶやいた。桜はもうさっさと炬燵に入ってしまっている。
世の中は無情だ、なんてらしくないことを思いながら、士郎は渋々炬燵に入った。いまだ炬燵に抱きついている大河の腕を叩くことは忘れなかったが。
炬燵の四面にそれぞれ座りながら、それからはしばらく雑談が続いた。なんせ、客人は英国はロンドンにお住みになっているお嬢様である。話のネタが尽きることはない。ロンドンはどんな街だとか、住んでいる人々はどういう性格だとか、自慢にならない料理は本当に自慢にならないのかどうかとか。料理の話になった時、きらきらと輝いていた大河の瞳が徐々に色褪せていったことをここに追記しておく。
「――ブリテンの料理に比べれば、シロウとサクラの料理は美味しかったですわ」
「ははは、そりゃどうも」
微細に英国料理の欠点を指摘するルヴィアに、士郎と桜は苦笑交じりで受け答えしていた。自分の料理が褒められることは嬉しかったけれど、いくら自分が作っていないとはいえ料理が糞味噌に貶されるのを手放しで喜べるほど、ふたりは子供ではなかった。
重たい鐘の音が、
十(鳴り響いたのはそんな時だった。四人が四人とも時計を仰ぎ見る。間違いなく、時計の二本の針は午後十時を指し示していた。
「ご飯遅かったから忘れてましたけど、私帰らないと」
「そうだな、もうこんな時間だから、藤ねえが桜を送っていってやれよ」
いつも桜が帰宅する時間は一定ではなかったけれど、ここまで遅くなるのは稀だった。醤油味の堅焼き煎餅をぼりぼり食べていた大河が、口をもごもごさせながらうなずいた。
「サクラの家はシロウの屋敷から遠いのですか?」
立ち上がる二人を見上げながらルヴィアは訪ねた。窓硝子を激しく揺らす北風が彼女の声を打ち消す勢いで吹き荒れている。
「はい。町の反対側ですから三十分ぐらいかかりますね、藤村先生にはいつも迷惑かけちゃって……」
「桜ちゃんは気にしなくてもいいんだよ、桜ちゃんが来るようになってお肉が美味しくなったんだからぁ」
うーん、可愛い、と桜を抱く大河。
「それは大変では? タクシーでも呼んだ方がいいのではないかしら」
大河に抱きしめられながら顔をほのかに赤く染める桜は首を振った。高校生がそんなことを毎日続けていい道理はないし、そんなことを続けられる余裕もない。そんな風に考えるところが本当にお嬢様だな、と思って桜は苦笑する。それに、
「毎日無理して来なくてもいいんだぞ、桜。俺も怪我はなんともないし」
この人にこんなことを言われたくなかったのだ。傍にいたいだけなのに、妹と思われていても一番近くにいたいだけなのに。士郎は彼女を自由に――望まぬ道へと進ませようとする。それが嫌だと言う勇気などないから、桜は眉をひそめ少し悲しい顔をする。
――いつもは。
「なにを言ってるんですか、シロウは。もう少し女心というものを勉強すべきです」
「なんでさ?」
思ってもみなかった方向からの口撃に士郎はあんぐりと口を大きく開けた。それは桜も同じで、目がまん丸に見開かれている。鳩が豆鉄砲に――というのはこういうことを言うのだろう。
「年頃の女性が嫌なのでしたらこんな屋敷に毎日通って来ませんわ。そういうことをもうちょっとその少ない頭で考えたらどうなのですか!? ――」
辛辣だった。さっきまでにこやかに談笑していた時と違い切れ長の目を細めて怒るその姿は、王族のような気品を感じさせ、ふっくらと柔らかそうな唇から発せられる声には微塵の許しもない嵐のような激しさだった。
「す、少ないって言ってもなぁ……増やせるわけでもないし」
「そんなことを聞いているのではありません! 黙りなさい!!」
「……はい」
元々どちらかといえば口下手な士郎に気の利いた文句が言い返せる筈もない。リロードなしで次々に打ち込まれる弾丸が、彼を矢継ぎ早に打ち貫いていった。悄然とし、彼は
頭(を垂れた。
「――それに、貴方はサクラがここを訪れないようになってもいいのですか?」
「え?」
一瞬の切り替えであった。嵐のような激しさは消えてしまい、母親のような優しい声色でルヴィアは問いかけた。顔を上げた士郎は本当に困惑した顔で質問した人間を見返した。
「貴方と彼女は家族なんでしょう? その家族に会えなくなってもシロウは構わないのですか?」
「…………」
音はなかった。時計も壊れてしまったのかもしれない。毎秒ごとに進む秒針の音を聞いている人間は、その場に誰もいなかった。
視線が様々に交錯する。ルヴィアと桜は士郎を、士郎は未だルヴィアを見つめたまま固まっている。唯一動いている大河でさえも、ルヴィアと士郎を交互に見ているだけで言葉を口にしなかった。
「……多分、それはやだな。考えたことはなかったけど、寂しいだろうから」
五分は経っていただろうか、いや十分かもしれない。一言を返すのに相応しい時間よりも長く感じたことだけは確かだった。ただ驚いていただけだった士郎の顔が自嘲気味に苦笑している。
その表情を見つめ、桜は痛切に思う。
――そんな顔をしないで!
いつの間にか、涙が流れて落ちていた。視界が潤み、閉ざされていた。
「――桜?」
目頭を擦りながら、桜は少しだけ本音を漏らす。ちょっと世間知らずのお嬢様に感謝しながら。
「どうしよう、先輩。わたし、とっても嬉しいです」
「それなら、泣かないで笑えよ桜」
腕で涙を拭いながら、桜は鼻をすすり上げた。ズズズッと情けない音がして、必死に止まれ止まれと願ったけれど、涙も鼻水も治まらなかった。子供のようにぼろぼろと涙が零れ落ちていく。靄がかかった視界の向こう側、士郎が笑っていることが切なくなるほど嬉しかった。
「泣かないの、桜ちゃん」
「すびばぜん、ふじぶらぜんぜい」
しゃくり上げながら、桜は大河の差し出すティッシュペーパーを受け取った。三枚一気に抜き取って、鼻をかむ。落ち着くまでに五分もかかった。
「桜ちゃん、落ち着いた? そろそろホントに帰らないと、もう遅いから」
「はい、わかってます。ごめんなさい、藤村先生」
最後のティッシュペーパーをゴミ箱に捨て、桜は俯いた。その顔を大河が覗き込み、
「いいのいいの、嬉しかったんだもんねー」
桜は耳まで真っ赤に染め、こくこくと小さくうなずいた。その仕種を見て、士郎が満塁ホームランを打たれ顔を赤くしていた。誰か
もう一人いること(を忘れながら。
そのことに初めて気付いたのは、ザ・野生の女。
「あれー? ルヴィアちゃんは帰らないの?」
そう思ったのは偶然目があったからだった。そうでもなければさっさと居間を後にしていただろう。首を傾げる大河に、ルヴィアは素敵な笑みを返した。
「帰ると言われても、わたくしはここに滞在するつもりですけど……」
何気ない一言だった。あまりにも素っ気無さ過ぎてその場にいる全員が疑問を抱かなかったほどに。
「へえ、そっか。ここに泊まるんだぁ。じゃあ、明日も一緒にご飯食べれるんだねー、わたし――ルヴィアちゃんみたいな子好きだから歓迎だよ」
「一ヶ月ほど滞在することになりますから、よろしくお願いしますね、タイガ」
「うん、よろしくー」
普通に会話を交わし、大河は居間を出ようと襖に手をかけた。そんな彼女に、桜が声をかける。
「あの、本当にいいんですか?」
「いいのいいの、どうせ士郎には手を出す甲斐性なんてないんだから」
ぴらぴらと手を振る大河。そんな姉の姿に、
「おい、ふじ――」
「――って、そんなことお姉ちゃん許しませんっ!!」
士郎は普通に恐怖した。アフタヌーンのトラウマがぶり返してきそうだった(まあ、彼の記憶からは消えているのだが)。
「た、滞在って、ルヴィアちゃん意味わかってるの? 士郎と二人っきりで寝るんだよ」
「はい、それぐらいちゃんと理解していますけど」
「――じゃあ、なんでだぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「ひぃ、藤ねえ頼むから家をぶっ壊さないでくれ」
士郎の懇願も虚しく、大河は掴んでいた襖をまっぷたつに引き裂いた。びりびりといやーな音を立てて再生不可能になっていく大切な家の一部を見つめて、士郎は心の中で涙した。ああ、要らないもんばっか拾ってこないで、修繕費用よこせ。
「ほら、ここに荷物もありますでしょ」
大河の剣幕にも怯えることなく、ルヴィアはスカートの
ポケットから大きな旅行鞄(を取り出した。密かに物理的にありえない大事件なのだが、現在の衛宮邸では毛ほどの注意も引かない些細な出来事だった。
「お風呂を頂いた時のために、浴衣も持参しましたのよ。でも、冬だとちょっと寒いのかしら。どうしたらいいんでしょう?」
大河は一人喋りをするルヴィアを睨んで、ぐぬぬっと唸る。おそらく、気ばかりはやって言葉が出てこないのであろう。真面目にプッツン現在進行形である。
そして、お嬢様の宣言したことが許せないのは、後輩の少女も同じだった。
「る、ルヴィアさんはわたしに先輩のことを譲ってくれるんじゃなかったんですか!?」
「そんなことをわたくしが言いましたか、ちょっと手助けしてあげただけです」
「おい待てっ! 俺はモノか!?」
竜虎共に立ち上がり、激しく睨みあい始めた。士郎の叫びなど、もちろん無視である。
「サクラ、わたくしは貴女のこと好きですわよ。でも、そのこととシロウのことは別の話ですわ。ふふ、料理が上手で、大事な時にはちゃんと他人のことも思いやれる優しさも持っていて、将来の相談役にもなれるかもしれない。そんな異性を黙って見逃せるはずありませんわ。それに、わたくし、勝負事が大好きなのです」
「わたしもルヴィアさんのことは嫌いじゃありません。でも、こうなったら争いは避けられないんですね」
炬燵を中心として、暗黒のオーラが渦を巻く。これは闘気と呼んでもいいのかもしれない。ふたりの全身のいたるところから無尽蔵に吹き出している。
「俺の意思はないのか。俺の……」
士郎は自分でつぶやいて、すぐに虚しくなった。どうしてあの程度のことがこんな大きな騒ぎになってしまったのか、ちゃんと理解できていないのだから。自業自得といえば自業自得である。
――はぁ、ついさっきにも同じようなことがあった気がする。
心の中でつぶやいた時、なにかが割れる音と共に士郎の意識は暗転した。
6 過ぎたるは及ばざるがごとし
特に騒がしかった日常も終わりを告げ、日付をまたぐことにより、衛宮邸は庭の一角を非日常へと変貌させようとしていた。打ち捨てられたような土蔵がその基点である。
その土蔵のプライベートな空間で、士郎はぽつねんと簡素な座布団の上に胡坐をかいて座っていた。お風呂から出てすぐ、この土蔵にやってきたので、まだ充分に水気を取れていない髪がほんのり湿っている。外にいれば髪が凍るかもしれない。寒々とした蔵で、かすかに身を震わせながら、彼は佇んでいる。生活の一部と言うよりも、もう彼の血肉の一部分と化している魔術の鍛錬をなすには、もう少し部屋が暖かくなったほうがよさそうだった。
士郎と部屋が暖かくなるまでの間に、ここ数時間のことについて、語っておく必要があるかもしれない。ルヴィアお泊り騒ぎが一段落するまでには、さらに時計の鐘が一つ鳴るまで待たなければいけなかったらしい。らしいというのは、士郎が気を失っていたからである。寝起きのような曖昧でぼんやりした意識で起き上がった彼は、ひとりだけ残っていたルヴィアにそう教えられたのだ。
――タイガとサクラも最終的に納得して帰っていきました、と。
あのふたりがなにも言わずに? と、士郎は思ったけれど、寝ていた用なしの自分に言えることなどなにもなく。こんな時間に彼女を放り出すのも非常に気が引けたので、一ヶ月の滞在などにはとりあえず目を瞑り、一夜の宿を提供することにした。
それでも、最低限の約束として、彼女には離れの客間を使ってもらうことにした。男として、それだけは譲れないことだった。
その離れの掃除を簡単にだが済ませ、烏の行水そのものずばりな入浴を終えた。ぼんやりとだが、幼少の記憶にあるルヴィアの住んでいた屋敷を思い出し、狭い浴室に恐縮しながら、順番を譲ったのがついさっきのことである。そろそろ今度は、彼女が風呂に入ろうとしている頃かもしれない。その光景を思い描こうとして、士郎は寒い蔵の中でひとり頬を赤くした。すけべだ。
「――そろそろ、かな」
ストーブにかざしていた手で頬をなぞりながら、士郎はつぶやいた。まだ寒さが残っているとはいえ、蔵の中からは身体の奥までシンと響く寒気が払拭されていた。
猫背になっていた背を正し、姿勢を整える。
猥雑に絡み合い、様々な様相を呈している、想像を断ち切り、頭を空っぽにする。
外と内に拡散していた眼を統一し、内へ内へと意識を研ぎ澄ませる。
修行僧のような清廉さと、サーカスのパフォーマーのような危うさを秘めた儀式――この鍛錬を士郎は父が生きていた時から続けている。このことが正しいのか、彼は知らない。父が死に、彼に魔道の知識を与えてくれる人間はいなくなった。ただ愚直に、必要だと信じ込んでいる。衛宮士郎は、衛宮切嗣を追う方法をこれしか知らないのだから。
「――――
同調開始(」
自己暗示の
呪文(をつぶやく、比喩ではなく周囲の空気が凍りつくように停滞する。その中心で座っている士郎は、もう人間ではないなにかのようだった。実際、もう彼は人間ではないのかもしれない。本来、いくら人間の身体が神秘の塊のように出来ているとはいえ、魔力を通すようには出来ていない。根本的に異物なのだ、そういうものは。
だから、通そうとするならば、それなりの労力が必要になる。たとえるなら、それは綱渡りをしながら一〇〇メートル先の小さな穴に糸を通すのに似ているだろうか。死という奈落の上に浮かび、生という細いロープにしがみつきながら、集中力を際限なく高めなければならない。
姿勢は変わらず、彫刻のように佇む士郎は動かない。少し荒くなっている息遣いと額から滴り落ちている脂汗だけが、彼の生存証明だった。
そのままの体勢で一時間弱、額だけではなく頬までも汗で濡れ始めた時、借り物の棒は背骨と同化し、士郎の身体の隅々に拡散していった。
何十分ぶりに、士郎は呼吸を呼吸と意識して深く息を吸い込んだ。珠のような汗がぽたぽたと地面に落ちる。手元にあったタオルでその汗を拭いながら、士郎は仰け反るように天井を眺めた。しばらく、そのままでいた後、士郎は近くに置いてあったカンテラランプを手に取った。両手で包み込み、穴があくほど凝視し、
「――――基本骨子、解明」
魔力を流し始める。彼に出来るのはただ一つ、
「――――構成材質、解明」
物体を強化することだけ、満足に教えを享受することが出来なかった彼にできる無二の一。
対象となるモノの構造を把握し、魔力を通す事で一時的に能力を補強する“強化”の魔術だけである。
「――――基本骨子、変更」
手に取っているカンテラランプを強化するべく、魔力を通し始める。もっとも簡単な硬度強化だというのに、士郎の表情には余裕のひとかけらすらなく、ただ真剣さと悲愴さがミックスされたような表情が浮かんでいた。
「――――っ、構成材質、補強」
視界が赤く染まり、静かな土蔵の中、士郎の中だけが激しく暴れている。静脈が浮き彫りになり、怪しく蠢いている。ラップ音が激しく鼓膜を打ち、なにかの足音が聞こえた。それでも、士郎はランプを視界の中心に据え、凝視し続ける。
そんな彼の決意に応えることが出来なかったためか、ランプの硝子は簡単に割れた。失敗だった。
「はぁ、駄目かー」
大きな溜息を漏らし、士郎は項垂れた。父が亡くなり、暗闇の中を手探りで進むことを甘く見ていたわけではなかった。が、彼も人間だ。上手くいかなければ落ち込むし、上手くいってほしいと望みながら鍛錬をしている。暫しの間、俯くことを許してほしかった。
「……汗が邪魔だな」
少し心がささくれ立っている。乱暴にタオルを掴み、無造作に額を拭った。そして、溜息を一つ。俯き項垂れると、身体が妙に重く感じられ、疲労が身体の芯に纏わりついているのがよくわかった。我慢できず、士郎は寝転んだ。
「今日はもう終わりにするか――な」
回路を作り終えた後のように、天井を眺めようとした士郎は言葉を失った。反転する視界の中、おとぎの国のお姫様が映っていた。決して調和しない土蔵と美女の組み合わせ、夢だろうか?
「……シロウ、なにをやっていたのですか?」
「ルヴィア……か」
声をかけられ、士郎はようやく自分が夢を見ていないことに気付いた。何度も瞬きし、反対になっているルヴィアの顔を見つめ続ける。彼女は眉をしかめさせていた。眉間に皺が寄っているけれど、ルヴィアは相変わらず綺麗だった。
なんだか、やっぱり夢みたいだ、と士郎は思う。二人の息遣いのほかには、風の音しか聞こえないような深夜に、士郎は寝転びながら美女を見上げ、美女は怒りながらこっちを見下げている。その上、さっきまでしていたのが魔術の鍛錬では、出来すぎで、すべてのことに実感が持てず、本当に夢を見ているような気分になる。
だからだろう、士郎は彼女が今この場所にいる不思議に頓着もせず、無意識のうちに口を開いていた。
「ちょっと考え事、かな」
かすかに揺らぎ、小さな声だった。それでも聞こえていたのか、ルヴィアは目を瞑り大きな溜息を吐いた。そして、やれやれといった風にかぶりを振りながら、口をひらく。
「シロウは死ぬ気なのですか?」
「え?」
呆気に取られ、士郎は目を見開いた。死ぬ? いったいなにを――。
「もう一度言います。貴方は死にたいのですか」
「…………し、死にたいかだなんて」
死にたいわけがない。そんなことは決まっている。生きて、少しでも早く“正義の味方”にならないといけない。切嗣の、父親の遺志を継がなくてはならない。そのために、こうして魔術の鍛錬をしているのに……そう、魔術の。
――魔術?
口を鯉のように慌しく開け閉めしながら、士郎はようやくおかしさに気付いた。いくら回路を作るために集中していたとはいえ、気配を絶っていたりしない限り、一歩後ろに立たれたのに気付かないわけがないのだ。
そして、ただの人間が屋敷の敷地の片隅にある土蔵を訪れる時、気配を立つこともありえない。なら、彼女はいったいなんなんだ。
士郎は瞬きすることなく固まったままルヴィアを見上げる。魔女は笑っている。少しの
瑕(もなく笑むその美しさの陰に正体が覗き見えている気がした。
証拠はない。ただ勘だけが彼に答えを囁いている。信じろ、認めるんだ、ルヴィアは――。
「魔術師……なのか?」
「…………」
士郎の口から漏れたつぶやきに対して返ってきたものは、冷たい視線と張り詰めた痛いまでの沈黙であった。視線をそらさぬまま、士郎は起き上がり片膝をついた体勢になる。ひとかけらの答えもなされぬことに失望を禁じえなかったが、いつでも飛び退けるように全身に力をみなぎらせた。
父から話では聞かされたことはあったが、その父以外の魔術師と対峙するのは初めてのことだ。圧倒的にモデルケースが足りない。彼女の一挙手一投足に目を凝らしながらも、士郎は大いに焦っていた。
――もしかしたら、戦うことになるのか……。
士郎はそう思い、口内にたまっていた唾を飲み下した。しかし、そんな士郎の決意など関係なく。
「……気付くのが遅すぎます。シロウの鈍感馬鹿」
「へ? ――いたっ」
ルヴィアは鈍感馬鹿にデコピンを食らわせて、大いに拗ねて頬を膨らませた。
緊迫した空気が一瞬で霧散したことに、士郎は困惑し、目を丸くした。かすかに赤く染まっている額が情けなく、今の彼にはぴったり似合っている。
「ルヴィア、どういうことなんだ? 鈍感馬鹿ってなんのこと?」
「まだわからないのですか? もう貴方は馬鹿というか、阿呆と言えばいいのか、それとも脳という宝を腐らせている人間失格と呼んだ方が相応しいかもしませんわね」
ふん、と鼻を鳴らして大きく口を開けている間抜けを見下ろすルヴィア。相変わらず瞳は冷ややかだったけれど、緊張感はない。
「そこまで言うことないだろ、混乱してるんだから。わかってることをひとつひとつ整理させてくれ。で、ルヴィアは魔術師でいいんだよな」
「シロウはまだそんなことを言っているのですか! そうに決まってるでしょう。この阿呆、わたくしのここ数日間の緊張を返しなさい!」
弾ごめなしで繰り出される罵詈雑言の嵐に士郎が抵抗できる筈もなく、彼は目を激しく瞬かせ黙っている。言い返せないということもあるが、罵倒される理由がわからないのも黙っている原因であろう。
「おい、ルヴィア。なにをそんなに怒ってるのさ?」
「貴方がそれを尋ねるのですか? どうして怒っているのか? そんなもの決まってます! わたくしが今日どんな気持ちで玄関の戸を叩いたか、士郎には到底わからないでしょうね? 下手をすれば殺し合いになるかもしれないとまで覚悟してきましたのに、貴方は昔に磨きをかけてのんきになっていて、もう信じられません」
マシンガンの銃撃はようやく止んだようだった。ルヴィアは肩を大きく上下させて、多少血走っているように見える眼で士郎を睨みつけている。その背中からは可視可能な黒いオーラが立ち上っており、禍々しいことこの上ないが、拗ねているだけと思えば可愛らしいものである。まあ、殺気を向けられている方はそうも言ってられないだろうが。
「じゃあ、ルヴィアは俺が
切嗣(に魔術を教えられたことを知ってたのか」
「当たり前です。キリツグの息子なのでしょう、士郎は。もう亡くなってしまったそうですけど、彼はそれなりに魔術師として名が売れていましたから、息子が跡を継ぐのは当然です。なのに、シロウは――」
「――ルヴィア、違う。俺は切嗣の跡を継げなかった。実の息子でもない」
「え!?」
言葉を途中で遮られ不満そうな表情をしていたルヴィアの眼が大きく見開かれた。
「……そうだったのですか」
ルヴィアは、もうおぼろになっている衛宮切嗣の顔を記憶の倉庫から引っ張り出す。
顎のひげは大半が剃り残されていて、髪もだらしなく、大変みすぼらしい印象を覚えたことをルヴィアは思い出した。引退してしまったが、以前はフリーで腕を鳴らした魔術師ということを父から教えられ気を張っていたのに、どこからどう見ても温和が取り得なだけのおじさんにしか見えず、かなり落胆したことを覚えている。その上、父親よりもその息子と大半の時間を過ごしたため、刺身のツマ程度の印象だった。
しかし、やはり魔術師は魔術師だった、ということなのだろう。
「本当の息子じゃなくても、切嗣は俺のことを大事にしてくれた。……多分、愛してもいてくれたんだ。それに魔術のことも本当は教えることにも乗り気じゃなかった。俺が何回もしつこく食い下がって、ようやく教えてくれたんだよ、じいさんは」
士郎は、まだはっきりと記憶に残っている衛宮切嗣の顔を思い出す。
いつもの緩みたるんだ表情ではなく、魔術師の表情。幼い彼に苦笑したあとに表れたその無表情を、衛宮士郎はこの世の終わりが来たとしても忘れないだろう。
なぜなら、それこそが彼が目指す終着点であるからだ。衛宮士郎は衛宮切嗣にならなければならない。そうして、父が赤い日から士郎を救い出したのと同じように、息子も誰かを地獄から救い出さなければならないのだから。
「完全にではありませんが、少しはシロウの状況がわかった気がします。今のところその話は置いておいて、わたくしの質問に答えていただけませんか?」
「……質問?」
士郎は首を傾げる。その様子を眺めて、ルヴィアのきつい目元がすっと細まった。
「――鳥頭」
士郎には聞こえない小さな声でつぶやく。
「そ、そんなことされたっけ?」
「しました! 大切なことです」
「…………ああ、思い出した。『死ぬ気なのですか』ってやつか。冗談だと思ってた」
士郎は手のひらを打ち、間抜けに大きく口を開けた。
「あのような悪趣味な冗談を言う感性は持ち合わせておりません」
人のことを糞味噌に貶す感性は持ち合わせてるじゃないか、などと士郎は思ったけれど、懸命にも口に出すことはしなかった。
「じゃあ、アレ――本気だったのか?」
「当たり前です」
酷薄にも聞こえる声色で返ってきた答えに、尻餅をついたような姿勢のまま士郎は魔女の顔を見上げた。交錯した視線は冷ややかで、なぜかいたたまれなくなり、彼は俯き視線をそらした。
「死にたいわけないじゃないか。俺は自殺志願者じゃない。やりたいこともあるんだ」
「しかし、あの鍛錬の仕方は自殺以外のなにものでもありません」
「どこがさ?」
「魔術を行使する時、一から魔術回路を生成する魔術師なんてこの世には存在しません。それはただの無駄です」
「無駄……なのか」
士郎は愕然となりつぶやいた。
「士郎の話によると、魔術刻印を継承していないのですからしょうがないかもしれませんが、危険すぎます。貴方が魔術師になることをキリツグが嫌っていたのは事実でしょう。しかし、師匠としては失格です。弟子への最低限のケアはなされるべきです」
「でも、俺には魔術刻印がなくて――」
「魔術刻印がないとしても、シロウの魔術回路はもうすでにあるのですから、一々初めから作らなくてもよいのです」
「へ?」
寝耳に水というのはこういうことを言うのだろう。信じていたものが崩れていく、不安な気持ち。
「だから、貴方はあんな苦行をこなさなくとももっと迅速に魔術を行使できるようなると、そう言っているのです」
「……それ、本当か?」
士郎はまだ信じられない。化かされているな気持ちが前面に押し出される。
「本当です。貴方みたいなおちこぼれに嘘を言ってどうなるというんですか」
「でも、どうすればできるようになるんだ? 俺にはわからないぞ」
「そんなことは百も承知です。面倒ですけれど、わたくしが基礎を教えて差し上げます。知ってしまったからには、目の届かないところで死なれても困りますから」
「ほ、本当にいいのか!?」
天から蜘蛛の糸が降ってきたというか、棚から牡丹餅というか、士郎は思わぬ朗報に文字通り飛び上がった。ついでに勢いあまり、ルヴィアの両手を己の手で包み込んだ。今、もし彼に羽がついていたとしたら、頭を打ってでも狭い土蔵の中を縦横無尽に飛び回っただろう。
「ですから、いいと言っているでしょう。わたくしでは不満ですか?」
「そ、そ、そんなわけない! 嬉しいよ、俺嬉しい」
士郎は音を立て首を横に振った。擬音語は、ぶんぶん――だ。
「わたくしが教えるのですから、このまま屋敷にとどまっても構いませんわよね? もちろん」
「いや、それは――」
詰め寄られ仰け反りながらも、士郎はなんとか言葉を濁らせた。それは色々とまずい気がするのだ。世間体とか、隣の飯食い虎とか、通ってくる女の子とか、色々問題がある。
「――構いませんわよね」
「も、もちろんいいさ。好きなだけいてくれ」
結局、誤魔化せるわけがなく。士郎は冷や汗を流しながら、不承不承うなずいた。
「では、契約成立ですね、シロウ。これからよろしくお願いします。講義のほうは厳しくいたしますから、覚悟しておいてくださいね」
「できるだけお手柔らかに頼むよ、ルヴィア」
普段、士郎はこんな情けない言葉を口にするような男ではないのだが、目の前の女性に“厳しく”と改めて念を押されると、これからの道のりが順風満帆でないことが肌で感じられ、少々背筋が寒くなるのだった。
この時、かすかにではあるが、ルヴィアの表情が曇っていたことに浮かれていた士郎は気づかなかった。決して表には出せない罪悪感を彼女は感じていた。なぜなら、彼女は目の届く場所でさえ、士郎の命が失われることになるかもしれないことを知っていたのだから。
Back
Index
Next